宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』(角川文庫、2018・6)

 この作者の作品を以前にはよく読んでいたのだが、この数年間遠ざかっていた。たまたま書店でこの文庫が目にとまり、一見風変わりなタイトルに惹かれて読んでみた。作者は、『火車』や『理由』など、現代社会のシリアスな問題を題材、テーマにしたミステリーとともに、『あやし』など江戸時代を舞台に幽玄の世界を描く、幻想ものともいえる作品を結構たくさん書いている。青年将校らのクーデタ未遂事件、2・26事件をえがいた『蒲生邸事件』などもその手法を駆使した作品である。本作もまた、現実と非現実の世界を交錯させる作者ならではの世界をえがく。

 推薦入学が決まって時間を持て余す高校三年生の尾垣真は、ある日銀行のロビーに展示されていた小学生の絵に添えるようにぶら下がっていた一枚のデッサンに魅せられ、家に持ち帰る。ヨーロッパの古城を描いた作品である。真はごくごく目立たない、普通の少年である。まわりからはつまらないやつとみなされている。真がデッサンに手を触れると、デッサンの世界に引き込まれるような感覚に陥る。そこで、この絵に人間を書き込み、そこに手を添えると本当に絵の世界に、ヨーロッパの中世の世界に入り込んでしまう。しかし、入ったとたんにバタっと倒れてしまう。真は、これは自分の描いた人間がへたくそだからだと悟る。そこで、まわりから無視され、いじめの対象にもなっている同級生の城田珠美がとてつもなく絵がうまいことに気づき、城田にデッサンの秘密を語り、協力を申し出る。城田は、周囲の軽蔑や黙殺に超然としているが、実は、父の再婚相手の義母とうまくいかず、携帯電話で時々父と言葉を交わすのが唯一の慰みという生活を送っている。

 城田は真の提案にしだいに乗り気になり、デッサンの画面にツバメを書き込む。真がこれに手を添えるとツバメとなって古城の世界で実際に空を飛ぶことができた。そして、古城の塔の窓から顔を出す一人の少女を発見する。少女は閉じ込められているのではないか、救わなければ、と真はおもう。こんどは、城田に人間を2人書き込んでもらい、真と珠美の2人で古城の世界に入り込む。しかし、森や林をくぐっても古城には到達できない。そのかわりに、古城の世界で、バクさんという中年のおじさんに出会う。漫画家を志望しながら、実際には有名漫画家のアシスタントに甘んじているバクさんの心の底には、現状への失意が潜んでいる。バクさんもまた、例の銀行ロビーでデッサンに目をとめ、それを撮影してコンピュータ画面を通じて古城の世界に入り込んでいたのである。

 バクさんから真たちは、10年も前に真らの街で起こって迷宮入りしている少女失踪事件のことを知らされる。不明となった少女は、母とも再婚した母の連れ合いともうまくいかず、虐待まがいの仕打ちもうけていたとのことであった。バクさんによれば、古城の少女は行方不明となっているこの少女である。バクさんと城田は、この少女を救出しようという。しかし、それが実際にできれば、10年前の少女失踪事件はなかったことになり、少女は生きていて19歳になっているはずだ。それは、真らの住む世界とは違った世界の現出である。それをあえて実行するか、現状に不満のバクさんと城田は断行を主張するが、現状に不満のない真はとまどう。

 概略こんなストーリーなのだが、奇想天外と言えばそれまでである。しかし、絵を描くことに、あるいは魅入った絵に夢中になって、実際に絵の世界に入り込んでしまうことはありうることである。現実に不幸を背負い、そこからの脱出をねがうバクさんや古城にとって、そこに希望と夢を託する気持ちが混入してもおかしくない。そんな、夢と現実の交錯を、作者はたくみにメルヘンチックに描きだしている。(2018・7)

チャールズ・ディケンズ『オリバー・ツイスト』(加賀山卓朗訳、新潮文庫)

 ディケンズ(1812~1870)の長編第二作、事実上のデビュー作ともいえる作品で、1838年に刊行されている。前作の『ピクウィック』は未だ読んでいないが、コミカルな作品なのにたいして、この作品は行き倒れの女が救貧院で生んだ孤児の物語で、大変シリアスな内容である。後の大作『大いなる遺産』や『デイヴィッド・コッパーフィールド』にも通じる、その原型ともいえる作品といってよい。

 リバプールマンチェスター間に最初の鉄道が施設されたのがたしか1830年だから、当時はイギリス資本主義の勃興期、産業革命のさなかである。ロンドなど大都市には、貧しい労働者の大群とともに、失業者、貧窮者があふれ、さまざまな悪徳や犯罪も横行する。同国で9歳以下の児童労働を禁じる最初の工場法が制定されるのが1833年、40年代初めには労働者の普通選挙権を要求するチャーティと運動がもりあがる。同国には、18世紀に整備されたそれなりの救貧制度が存在したが、自由主義思想などの影響のもとに1834年に救貧制度の見直し、「救貧は最下級の労働者以下」とするなどの大改悪がおこなわれた。マルクスエンゲルスはこれにたいして、「もっとも明白なプロレタリアートにたいするブルジョアジーの宣戦布告」と評した。ディケンズの筆鋒は、まずこの新しい救貧制度に向けられる。 

 救貧院でオリバーを生んだ若い女性は、最後の力を振り絞ってわが子にキスをしてこと切れてしまう。孤児となったオリバーは救貧院で育てられる。しかし、改正された救貧院制度は、一般市民から徴収される救貧税を減らすために、生命の維持ギリギリ以下に経費を切り詰め、収容者の数が減るのをなによりの目標にする。オリバーら幼い子どもたちは、食事に茶碗一杯の薄粥しかあたえられず、文字通りの飢餓状態を強いられる。耐えられなくなったオリバーが「お代わりを下さい」と口にしたことが最悪の不信心、悪行と断罪され、懲罰として年季奉公に出される。葬儀屋の下働きである。

 そこを逃げ出した幼いオリバーは、何日もかけてロンドンにたどり着く。そこでオリバーを待ち構えていたのは、フェインギというユダヤ人を中心とする窃盗団の一味であり、それを牛耳る凶悪な犯罪者、ビル・サイクスである。行き場のないオリバーは、この集団と生活をともにする間に、スリの一味として警察に追われ、捕らえらる。そしてあわやというところで、親切な紳士、ブラウンローにすくわれる。ブラウンローのもとで生まれて初めて人間らしい扱いを受けるオリバーだが、フェイギンらはオリバーを見逃しはしない。外出中に強制的に身柄を拘束され、今度は強盗団の手先役を強いられる。しかし、ここでも、犯罪者グループの一人であるナンシーという女性とともに、被害者となるはずのメイリ―夫人と美しい娘のローズに助けられる。そして話は、次第にオリバーから、ブラウンロー氏らと犯罪者集団とのたたかいへと移っていく。ブラウンロー氏らはサイクス、フェイギンらを追い詰めていく。その過程で、オリバーの出生の秘密、出自も明らかになり、最後はハッピーエンドとなる。

 主題が次第にオリバーから離れて、犯罪者集団とのとりもの的な話になり、オリバーの出生の秘密もかなりむりなストーリーとなっているなど、作品の出来としては決して褒められたものではない。しかし、サイクス、フェイギンらの犯罪者たちをふくめて、ディケンズの描く人間たちはとても生きいきとしていて、良い意味でも悪い意意味でも人間味に溢れ、魅力的である。そこを貫く社会の底辺の人々へのあたたかいまなざしと、不合理な社会制度に対する痛烈な批判が、この作品の魅力となっている。(2018・7)

 

ヴィクトール・K・フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳、みすず書房、2002)

 ナチスアウシュビッツ収容所での体験を記録した有名な本書は、若いころに当然読んでおいてしかるべきであった。しかし、著者のフランクルが、フロイド系の精神科医であることへの違和感もあって、そのうちそのうちにと思いながら、ついに読まずにきた。最近になって、訳者の池田さんの講演を聞きに行った妻が訳者のサイン入りの本書を購入してきたのを機会に、ようやく読んでみようかという気になった。感想を一言でいえば、やはり知識人であり心理学の専門家ならではのすぐれた観察と分析があり、人間存在とはなにかについて深く考えさせる良書である。

 著者をふくむ1500人のユダヤ人は、ある日突然、ウイーンから荷物同様に貨車で何日も移送される。突然収容者の一人が叫ぶ。「駅の看板がある――アウシュビッツだ!」と。人々は、底なしの恐怖のなかへ追いやられる。そこでまず人々を襲うのは収容ショックである。溺れる者は藁をもつかむという。死刑執行をまえにした囚人は、恩赦妄想にとらわれるという。自分は恩赦になるのではないか、という妄想である。貨車から降ろされ、縞模様の囚人服を着た収容者の群れに放り込まれた収容者たちは、まずそんな妄想にとらわれるという。

 収容所生活で次に襲ってくるのは、感動の消滅だという。いっさいの人間的な感情が鈍化し、消滅してしまうのである。虐待と非人間的扱い、極端に悪い栄養状態と衛生にたいする人間の保存本能、自己防御反応であるという。苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者のどれを前にしても、何の感情も湧かなくなる。数週間の収容所生活で見慣れた光景になり、心が麻痺してしまうのである。死体がころがれば、その靴を奪い、衣服をはぐ。それが当たり前になる。そういう収容者の中でも、たえず選別がおこなわれる。ガス室へ送られるものと強制労働に就かせられるものの選別、監督や炊事当番に抜擢されるものと、その指図に従うものとへの選別など。そして選りだされた者のなかには、一般収容者にたいしてゲシュタポ以上に残虐な暴力をふるうものがいるのもめずらしくない。

 収容者における人間の「退行」は、収容者の夢に典型的に表れるという。美味しいパンの、たばこの、ゆったりしたお風呂の夢等々。「未来を失った状態」「生きるしかばね」こそ、収容者たちを形容するにピッタリだという。そうした極限のなかで、人間らしさ、とりわけ人間の自由はどうなるのだろうか? 著者はこの問題について、考察をすすめる。あらゆる肉体的精神的自由を奪われ、ほしいままの虐待にさらされて、人間らしさはどこに残るのか? 頭の中で妻と会話をかわし、自分の過去を思い出すこと、これらは、どんな強制と過酷な現実によっても奪うことはできないと、著者は自分の体験から証言する。著者はいう。「人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ」と。

 収容所からの放免の際に直面する心理についても、述べられている。極度の緊張状態から解放された人間は、場合によっては精神の健康を損ねるという。権力、暴力、恣意の客体だった人間が、解放とともにその主体に転嫁することもある。また、夢にみた家族の喪失に直面して呆然自失するケースもある。「新たに手に入れた自由のなかで運命から手渡された失意は、のりこえることがきわめて困難な体験であって、精神医学の見地からも、これを克服することは容易ではない」。奇跡的に生きのびた著者もまた、最愛の妻の喪失という現実に直面しなければならなかったのだ。(2018・7)

チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』(脇明子訳、岩波書店)

 ディケンズの作品のうち日本で一番よく知られているのは『クリスマス・キャロル』であろう。このところディケンズをずっと読んできたが、何故か未読のままになっていたので、挑戦することにした。他の大作とちがい、これは主として子ども向けの寓話といってよい。1843年に書かれた中編の作品である。

 当時、イギリスでは、17世紀半ばの清教徒革命の影響などからクリスマスを祝う風習自体が廃れていたという。クリスマスはもともと、キリスト教伝来以前からあった冬至の行事であり、それが異教的だということで禁じられたのだという。しかし、ヴィクトリア女王が1840年にドイツ出身のアルバート公と結婚して、バッキンガム宮殿にクリスマスツリーが飾られるようになって、イギリスでもクリスマスのお祝いがふたたび流行しだしたのだそうだ。そんな時代にこの作品が書かれ、広く読まれたことから、ディケンズがクリスマスをよみがえらせたといわれたとのことである。ちなみにクリスマス・キャロルとは、クリスマスにキリストの生誕を祝う唄のことである。

 物語の主人公は貪欲で冷酷無比な初老の男スクルージである。「握ったが最後、死んでも離さない男でした。ひっつかみ、もぎ取り、絞りあげ、こそげ取る、欲の皮のつっぱった罪深い男」「無口で、無愛想で、人づきあいが悪いことときたら、殻を閉ざしたカキそっくり」と紹介される。この男は、クリスマスがきて書記のクラチェットが休暇を申し出ても、翌日の早朝出勤を条件に嫌みたっぷりにしぶしぶ認めるほどしみったれである。たった一人の甥がわざわざ訪ねてきて、「クリスマスおめでとう、おじさん! 神様のお恵みがありますように」とあいさつしても、「ふん、くだらん」「とっとと帰れ」とほざくしか能がない。

 このスクルージのところに、つぎつぎと三人の幽霊があらわれる。クリスマスに幽霊とはと思うかもしれないが、クリスマスはもともと土着の伝統行事である。日本で言えばお盆に祖先の霊がでてくるようなものなのだという。最初の幽霊は、スクルージの若いころを再現して見せる。まだ純情で、夢も希望も周囲への愛情ももっている青年の姿である。スクルージは、自分にもこんな過去があったのだと懐かしく思い出さざるを得ない。次の幽霊は、現在の街の人々を紹介する。しぶしぶ休暇を出した書記と家族がむかえるクリスマスの楽しい食事、甥とその妻が多くの子どもたちと迎えるにぎやかで活気あふれるクリスマスの夕べなどである。どこでも、強欲で偏屈なスクルージへの非難と軽蔑の言葉も口の葉にのぼる。三番目の幽霊は、スクルージを未来へいざなう。一人の老人の死体がベッドにある。誰一人、お悔やみの言葉も同情もよせようとしない。むしろ、当然のむくいとばかり、この老人の生前をあしざまに非難する。いったいこの死体はだれなのか? それが自分の未来の姿であることを知ってスクルージは愕然とする。

 クリスマスの日、三人の幽霊との出会いからスクルージはすっかり態度をあらため、親切で人情深い好爺に変わるというお話である。イギリス社会が産業革命の最中、資本主義の発展とともに、貧富の格差が広がり、まずしい労働者がロンドンの街にあふれる、そんな時代である。ディケンズは、書記のクラチェット一家など貧しい人々の暮らしぶりとそこでの人間味あふれる人々の交わりに温かい目をそそぐ。スクルージとその変貌は、金儲け、利潤第一主義という資本の論理への告発でもある。(2018・7)

 

コルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』(谷崎由衣訳、早川書房、2017)

 作者は、アフリカ系のアメリカ人で、1969年生まれ。ハーバード大学で学び、ジャーナリストから作家になる。この作品は、ピューリッツアー賞、全米図書館賞などを受賞し、ベストセラーとして全米で広く読まれている。「ムーンライト」でアカデミー賞を受賞したハリー・ジェンキンス監督によるテレビドラマ化も決まっているという。南北戦争前の1800年代前半の南部アメリカを舞台に、プランテーションから自由を求めて逃亡する奴隷少女を主人公にした物語である。

 内容以前に注目したいのは、トランプ大統領による人種差別ともとれる排外主義的路線がまかり通るアメリカにおいて、黒人奴隷の逃亡劇がなぜこれほど人気を博するのかということである。ここには、アメリカ社会に根ざす民主主義の伝統がいまも健全な生命力をもちつづけている証をみることができるのではないか? 同時に、それと裏腹だが、人種差別がいまもアメリカ社会の底流に深く根付いており、それを過去のものと片づけることができない現実があることをも意味している。

 南部ジョージア州の農園では、過酷な奴隷労働による綿花栽培がおこなわれていた。奴隷たちは、商品として売買され、農園主らの無制限な暴力支配のもとに置かれる。反攻したり逃亡を図ったりしたら、公衆の面前でなぶり殺され、木につるされる。コリーは三代目の奴隷で、母はコリーを置いて逃亡した。コリーは、ある日、シーザーという青年から逃亡の誘いを受ける。幼い少年が残酷な虐待にさらされるのを見かねて庇ったコリーは、むごたらしい暴力によって、立ち上がることもできないほど痛めつけられる。これを機に逃亡を決意したコリーは、シーザーともう一人の少女とともに闇に紛れて農園を脱出、追手に見つかり、もう少しでとらえられるところを、危機一髪逃れる。そのさい、コリーは追手の一人であった白人少年と格闘して石で少年の頭を砕く。そのため、殺人犯としても追われる身になる。追手には、賞金目当てに逃亡奴隷をつれもどす奴隷狩り専門の組織があり、他の州に逃げても見つけだして、有無を言わさず連行する。連れ戻された農園では、他の奴隷への見せしめとしてなぶり殺しが待っている。

 ここで登場するのが、逃亡奴隷を助ける“地下鉄道”なる秘密組織である。実際にそうした秘密組織が存在し、隠語として“地下鉄道”、それに携わる“駅長”、“車掌”、隠れ家としての“駅”などの言葉が使われていたらしい。この作品がユニークなのは、この“地下鉄道”をそうした秘密組織の隠語としてではなく、実際に存在したように描いていることである。そのため、コリーらの逃亡は、地下鉄道へ案内され、地下鉄の車両に乗って州境を超え、自由の身になるという展開になる。この作品がフィクションとしてエンターテイメント性を強く持つゆえんである。

 コリーは、サウスカロライナへ逃れ、そこでつかの間の自由を手にするが、追手に見つかる。危機一髪で逃れ地下鉄道でたどりついたノースカロライナでは、狂気じみた奴隷排斥運動が支配し、コリーは隠れ家の天井裏に何ヶ月も潜む。そこも発見され、家の主人の白人夫婦は虐殺され、コリーも捕らわれの身になる。あわやのところで秘密組織のメンバーに救われ、インディアナ州の黒人施設、ブラウン農場でようやく人間らしい生活を手にする。そこで、勉強もし、恋愛も体験するが、農場はある日やはり白人暴徒に襲われる。命からがら脱出したコリーは北部へむかう。

 逃亡するコリーをつうじて、奴隷制度からの黒人の解放がどんなに苦難の道をたどったか、そのためにどんなに多くの犠牲が強いられたか、黒人たちの夢や希望、自由への願いがどんなに無残にふみにじられたかが、リアルに描き出され、自由と人権の尊さと、そのためのたたかいの偉大さを再確認させてくれる。(2018・7)

角幡唯介『極夜行』(文芸春秋、2018・2)

 著者は、探検家でノンフィクション作家。1976年生まれ。チベットの「謎の渓谷」と呼ばれていたヤル・ツァンボー渓谷を二度にわたって単独で探検(2002~2003、2009年)し、二度目の探検を描いた『空白の5マイル』で、開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞した。この本は私も読んだことがあり、その冒険心と勇気に加えて、筆力に感心した記憶がある。今回の著書を読む気になったのもそのためである。

 極夜行とは、北緯78度以北の極地を太陽の出ない冬の季節に単独で旅をすることをいう。具体的には、グリーンランドの北西部北緯77度にあるシオラバルクという村落から、途中アウンナット、イヌアフィシュアクというデポ地を経て、79度の北海ダラス湾まで、約4ヶ月かけて往復を歩き切ったのである。著者によると、探検といっても地球上にもう処女地はなくなっている、しかし、太陽の出ない季節、闇の中で極地を歩いた人はいないという。だから、極夜行なのだというのである。角幡はこれを、システムからの離脱と名付ける。すなわち、文明のなかにある現代では、すべて人工的になっていて人間がありのままの自然そのものに触れ合う機会はなくなっている。この現代文明のシステムから離脱してこそ本物の自然と向き合うことができる。それが極夜行だというのである。

 実際の旅は、2016年11月から始まる。橇二台に自分と犬の食料、生活用品を積んで出発する。まずメーハン氷河という高度1000メートルを超す氷河を渡り切らなければならない。橇をひいての重労働に加えて途中でブリザードに二度も出会う。立っていることもできない猛吹雪である。テントを飛ばされないように厳重に注意しながら何日も停滞を余儀なくされる。ようやくこの氷河を超えると氷原に出るが、一日中陽が射さないのだから、目で地形を確かめることも、方角を定めることもできない。頼りになるのは、コンパスと晴れた日の星と月である。しかし、極夜では山も丘も氷柱も明確な形をとって視覚にはいってこない。ただぼうっとした状態で視認できるだけである。それは、文字通り、システムを離脱した状態である。

 昼と夜の区別がないから、行動するには星か月が出る夜の方がよい。ようやく最初のデポ地、アウンナットに着く。ところが、苦労してデポした食料はシロクマに襲われて影も形もなくなっている。やむを得ず、食料を節約しながら次のデポ地、イヌアフィシュアクをめざす。方向を定め針路を誤らないよう細心の注意をしてようやくイヌァフィシュアクに到着する。ここのデポは、イギリス探検隊が置いて行った食料などとともにきちんとしたパックに収容されているから、よもやシロクマに荒らされることはあるまいと、信じ切ってきた。

ところがここも荒らされている。食料なしに旅を続けることはできない。角幡は、残った食料を思い切って切り詰めるとともに、麝香牛かせめてウサギ、キツネなどを射止めようと考える。そのため氷原やツンドラの中をさまよう。しかし、獣の足跡は結構目にするが、姿はあらわさない。食料を切り詰めた犬は、がりがりに痩せていく。最後はこの犬を殺してその肉で生き延びるしかない、角幡は絶体絶命にまで追い詰められる。ようやくキツネを射止めてほっとするが、帰りの最後に待ち受ける氷河で再びすさまじいブリザードに遭遇、何日も停滞を余儀なくされる。しかしついに待ちに待った太陽が姿をあらわす。村に在住する日本人との携帯電話による交信で気象情報を確かめつつ、ついに帰還の日を迎える。 

 著者が言うように、この探検は何年もかけての事前調査、現地体験によって周到に準備されてきた。それがあって初めて可能になったものである。そのレポートが、東京医科歯科大病院で夫人が苦しみながら第一子を産む現場のレポートから始まっているのも、ユニークである。赤子が産道を通って明るい世界に出てくるのと、極夜から光の世界への帰還をだぶらせているのである。(2018・7)

 

チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』(石塚裕子訳、岩波文庫)

 ディケンズの代表作の一つで、作者の自伝的要素の強い作品である。1849年から50年にかけて分冊で発表された。大作で読むのに時間がかるが、とにかく面白い。

 主人公のコパ―フィールドは、父が早くなくなり母と女中のペゴティと3人でつつましいが幸せに暮らしていた。ところが母が再婚し、再婚相手とその姉が家に乗り込んでくると、たちまちのうちに母をねじ伏せて、コパ―フィールドを徹底的にいびり、最後は寄宿学校へ追放してしまう。全寮制のこの学校では、悪徳校長の暴力が支配している。コパ―フィールドはここで、義父の差し金で札付きの“悪ガキ”として文字通り首に札をかけられて屈辱的な出発をするのだが、年長で頭がよく親切で統率力のある先輩、スティアフォースと出会い、その庇護のもとにそれなりに有意義な学校生活を送る。無類の好人物で生涯の友となるトラドルズとも知り合う。

 ところが、いじめられぬいた母が体を壊して他界すると、12歳のコパ―フィールドは学校も止めさせられ、ロンドンへ送られて瓶洗いという過酷な肉体労働に就かされる。毎日の労働には夢も希望もない。これは作者自身の体験にもとづいている。下宿先はミコーバという男の家だったが、この男は美辞麗句を唱えるが生活力がなく、一家は借金で債務監獄に入れられる。このミコーバさんは、ディケンズの父をモデルにしていると言われる。

 ディケンズの父は、経理士官の軍人だったが、経済観念に乏しく浪費による借金の返済ができず債務監獄に送られる。このときディケンズは12歳で、靴墨工場の労働者として働かされている。この体験が、作品の前半に色濃く投影されている。作品冒頭のこのくだりは、作者自身の体験にもとづくだけに大変リアルで、迫力がある。コパ―フィールドのミコーバ一家との付き合いも、この作品の大事な構成部分をなす。

 絶望的な日々を送るコパ―フィールドは、ドーバーに母の縁戚で資産家の叔母がいることを思いつく。そして職場を逃げ出しこの叔母に助けをもとめる一大決心をする。ロンドンからドーバーまで、こどもの脚で一週間も十日もかかる。馬車に乗る旅費もなく、ただ一人徒歩で歩き出す。野宿し腹が空いて耐えられなくなると、着ている上着やチョッキを古着屋に捨て値で売って、パンを買う、そんな旅を続けて、疲れ果て泥だらけになって叔母の家にたどり着く。そしてこの叔母のもとで、第二の人生が始まる。叔母の顧問弁護士であるウィックドフィールド氏のもとに下宿して、学校に入りなおし学び直す。ウィックフィールド氏のもとにアグネスという美しく聡明で思慮深い娘がいる。コパ―フィールドは、アグネスへの恋心の芽生えに気づきもしないで、尊敬する姉として接しつづける。そして、師事することになった弁護士の娘,、この上なく美しくチャーミングなドーラに夢中になる。ドーラをめぐるドラマがこの作品のなかで中核部分をなしている。

 コパフィールドは、速記術を学び速記記者からジャーなリズムへすすみ、さらに作家として名を成していく。ウィークフィールド弁護士事務所には、ユライア・ヒープという司法事務員がいる.。低い身分の出身でそれを卑下して常々卑屈な態度をとるが、悪賢く、計算高く雇い主の弱点を握って次第にのしあがり、事務所を牛耳るに至る。そして、ゆくゆくアグネスを自分のものにしようとたくらむ。この男との対決も後半の核心をなしている。コパ―フィールドは、女中のペゴティの家族、漁船を家として暮らすミスター・ペゴティとその家族とも親しく交わる。そのなかには小さく美しいエミリーがいる。このエミリーをめぐる悲劇が後半で大事な位置を占める。

 ミコーバにしろ、ミスター・ペゴティにしろ、貧しい庶民である。ディケンズはこれらの人たちに人間としての尊厳と誇りを認め、温かい目を注ぐ。また叔母にしてもアグネスにしてもか弱き女性ではなく、聡明で堂々としてむしろ主人公の庇護者である。この時代にあってこうした女性の登場もこの作者ならではである。ここにディケンズがイギリスの国民作家として愛される最大のゆえんがあるのではなかろうか。日本で言えば夏目漱石の『坊ちゃん』の主人公やヤマアラシ、野太鼓にもつうじる愛すべきキャラクターを、その多彩な登場人物に見ることができる。(2018・7)