真藤順丈『宝島』(講談社、2018・6)

 アメリカ占領下の沖縄を舞台に戦火を生き抜いた若者たちがくりひろげる壮大なドラマとスペクタクルである。米軍との地上戦をガマのなかで体験して育ったオンちゃんを頭とするレイ、グスク、ヤマコの四人は、戦果アギヤ―とよばれるコザのやくざ、窃盗団である。戦果アギヤ―とは、米占領軍の施設から食料や医薬品、雑貨などを盗み出し、飢えた市民に配ったり、病人に医薬品を届けたりする、いわば一種の義賊でもある。沖縄戦終結とともに、命のあった県民の多くは米軍の捕虜になって収容所に入れられ、出てきたら土地も家屋も米軍に接収されて生きていくすべがない。そんななかで米軍相手の売春婦などに身を堕すか、米軍の物資を略奪するかしか生き延びる道がない。戦果アギヤーは、コザの市民からありがたがられ、尊敬もされていた。とりわけオンちゃんは、戦果アギヤ―のリーダーとして、大胆かつ勇猛、冷静、沈着、俊敏で、なかまからは英雄視されていた。わがもの顔にのさばる米軍による暴行、強姦、ひき逃げなどの犯罪があとを絶たず、人種差別が横行する沖縄で、占領軍に対する反感と憎しみが日増しに増幅していく。そんななかで、自然な成り行きでもあった。

 1950年代の初めのある日、オンちゃんたちは、嘉手納の米軍基地に押し入る。どういうわけか、この日は待ち構える米軍に遭遇、必死に逃げてグスクは脱出したが、レイは捕らえられ獄に送られる。ところがリーダーのオンちゃんは行方不明になる。オンちゃんの恋人ヤマコはもとより、グスク、レイによるオンちゃん探しが始まる。その後、グスクは警官になり、米軍の治外法権に妨げられながらも米兵の犯罪を追う。ヤマコは米軍相手の飲み屋で働きながら勉強して教師になる。勤めていた小学校に米軍機が墜落、教え子たちが犠牲になるなどの体験をへて、ヤマコは瀬長亀次郎たちが指導する基地反対闘争に加わっていく。レイは、捕らわれた獄中で瀬長亀次郎に出会う。過激な獄中闘争にも加わるが、釈放後ならずものの世界で反米テロリスト集団に一員になる。

 それにしても、いったいオンちゃんはどこへ行ったのか? いくつかの手がかりから、「予定外の戦果」をかかえて嘉手納基地を脱出したあと、密輸団に身柄を拘束され、その集団の拠点がある離島の悪石島にいたことがわかる。そのとき小さな子どもといっしょだったという。それから数年を経て、グスクやレイ、ヤマコのまえに、ウタというハーフの孤児があらわれる。ヤマコは、言葉を発しないこの子に言葉を教え、施設へ入所の世話をする。1960年代後半、沖縄の復帰運動がたかまり、佐藤内閣のもとで復帰協定へと外交交渉がすすむ。「核抜き、本土並なみ」の復帰で米軍基地から解放されるかどうかが、県民の最大の関心事となる。そんな時、コザで米兵によるひき逃げ事件をきっかけに、反米暴動が勃発する。そのなかにはレイの姿もある。駈けつけたグスコやヤマコのまえで、ウタが米軍に射殺される。三人は、ウタの遺体をいだいて、ウタがよく訪れていたというガマにおもむく。そこでかれらが発見したものは?

 作者は、1977年生まれで、東京で生まれ育っているが、沖縄の風土や伝統、歌謡などによく通じ、それらをふんだんに駆使しながら、米占領下の沖縄の騒然かつ雑然とした、しかし熱気あふれる街の雰囲気をみごとに描き出している。そして、アウトロー同士の抗争や米軍の諜報機関の暗躍などをもおりこみながら、米占領者への憤りと憎しみを募らせながら、占領軍に依存するしか生きる道のない人々の悲哀を、みごとに浮きあがらせている。もともと、ホラー作品などを書いてきた人のようで、この作品にもそうした趣向は随所に見られる。作品はエンターテインメント仕立てだから、その限界は感じるが、沖縄の戦後史に対する視点も的確で才能のある若手として今後の活躍が楽しみである。(2018・10)

 

松本清張『棲息分布』(文春文庫)

 戦後、石油業界に進出して破綻した安宅産業という商社を題材にした経済小説『空の城』(文春文庫)を読んで面白かったので、同じ系列の作品として本書に手をのばした。1966年~67年にかけて書かれた作品である。前作が膨大な資料を駆使して安宅産業の石油事業への進出から破産までをていねいに描き出していて感心したのだが、この作品は、田中彰治や小佐野賢治、児玉義誉士夫らをモデルにしているようだ。しかし、話は経済問題もからむが、その中心は次第にどろどろした男女の関係に移っていき、その意味ではちょっと期待外れであった。

 戦後、一代で財閥を築いた鉄鋼王の菅沼丑兵が、伊東の別荘の大浴場で30人の裸女に囲まれながら突然死をとげるという、ショッキングな話から物語は始まる。この鉄鋼王の話かと思うと、そうではなく、菅沼の影に隠れた存在であった系列会社の社長、井戸原俊敏が表にでてくる。菅沼の東洋鉄鋼は、実は粉飾決算などで覆い隠していたが経営危機にあり、多額の出資でそれを救っていたのが井戸原であったからである。井戸原は、菅沼につぎ込んだ資金の返済を次代社長にせまり、系列の建設会社などを譲渡させるとともに、次期総理大臣候補と言われる政務次官に接近して、政界との太いパイプを力に建設業界に乗り出そうとする。井戸原はいったいどこから莫大な資金を手に入れたのか。その謎が一つの柱である。

 井戸原は自分の経歴を明かさない。彼は戦時中、軍需省で軍属として働いていた。敗戦直前に省の上層部と組んで膨大な軍需物資の横流しをおこない、それによって得た富が戦後経済界に進出する資金源となったのである。この井戸原の過去を知っている人物が一人いた。井戸原の会社の根本常務である。根本は、戦時中憲兵将校で、井戸原らの軍需物資横流しを察知し、重大軍事犯容疑で井戸原らを拘束して取り調べ中に敗戦をむかえる。捜査はうちきられ井戸原らは釈放される。この弱みを握られた井戸原は、自分の社の常務として根本を遇し、一番の側近として相談相手にしていたのだが、社会的地位が高まるにつれ、根本を次第に疎んじるようになる。そのことを察知した根本は、井戸原に対して逆襲をくわだてる。これがこの作品の最大のテーマである

 井戸原には初子という妻がいる。旧華族の血を引く名門の出である。井戸原は初子の他に、美奈子という女優をホテルに囲っているが、これに飽きて若い女優である瑞穂高子にのりかえつつある。一方、初子にはプロ野球の選手で山根という青年の恋人がいる。二人が香港へ旅をしている最中に、スポーツ記者の森の目にとまり、スキャンダルのスクープ種にされかかる。元憲兵の根本は、森を買収するなどしてこれらの事実をつかみ、それを材料に井戸原をゆさぶりにかかる。夫に浮気をさとられる危険を感じた初子は、山根に手切れ金をわたして関係を断つとともにともに、山根が瑞穂高子とつきあっていることをつかんで、山根と瑞穂の縁談のまとめ役を果たし、その結婚の媒酌を井戸原とともに買って出る。こうして、自分と夫の愛人を結婚させることで、自分たちの不倫の発覚を抑えるというのだから、不徳の極みである。井戸原に対する根本の追及、追い落とし作戦は、井戸原の経歴や男女関係のスキャンダルを活字にして流すことで成功するかにみえたが、そうはいかなかった。根本は、森田に書かせた暴露文をマスコミや政財界要人に送り付ける。その結果、根本の期待は完全に裏切られる。後半はこの男女の入り乱れた関係に筆が流れて、私の興味からは外れていく。(2018・10)

 

松本清張『空の城』(文春文庫)

 10大総合商社の1角をしめていた安宅産業が、カナダのニューハンプシャー州のカンバイチャンスに巨大製油所NRCを建設して石油事業に乗り出したが、第4次中東戦争による原油価格の暴騰に遭遇するなどして破綻、伊藤忠商事に吸収合併されたのが、1977年である。3500人が働く大商社が突如として姿を消した戦後日本経済史上の大事件であった。この事件を題材に、その翌年『文芸春秋』に連載されたのがこの作品である。安宅産業が姿を消すまでの全過程とその真相を、現地取材をふくむ克明な調査をふまえて徹底的に究明、渾身の力をこめて描きあげている。日本の古代史をテーマにした作品でも、『日本の黒い霧』をあばく昭和史シリーズでもそうだが、この作者の取材、調査への全力投球にはただただ敬服するほかない。アメリカ、カナダ、イギリスなど国際的な舞台で繰り広げられた複雑で奇々怪々な経済事件の全容を、それが明るみになった翌年にこのような作品に仕上げたのだから驚くほかはない。

 江坂産業(安宅産業)は、レバノン系のアメリカ人起業家、投機家アルバート・サッシン(実名はシャヒーン)と組んで、カナダ・ニューハンプシャー州直営の石油精製所の代理店として石油事業に参入する。BP(ブリティッシュ・ペトロリウム)などが君臨する石油帝国への新たな参入である。無人の地に突如現れた巨大な製油所の開所式は、豪華客船、エリザベス・クイーン号を借り切って現地へ乗りつけるというスタンドプレイで華々しく幕を開けた。主宰者のサッシンはもとより、江坂の河合社長、米沢副社長もタキシード姿で出席、イギリスの元首相のチャーチルの息子など各界の著名人も多数参加する。なかでも立役者は、江坂の系列会社、江坂アメリカの社長である上杉二郎である。日系二世で英語が堪能、サッシンと特別に親しく、この事業を立ち上げる立役者となった。NRCの製油所は、当面日産10万バーレル、第2、第3の製油所の建設も予定しており、ゆくゆくは日産30万バーレルを見越している。イギリス資本のBPから原油を買って大型タンカーでカンバイチャンスまで運び、ガソリンなどに精製してアメリカ、カナダなどに売りさばく。前途はようようたるものと期待された。

 ところが開所祝賀会の最中に第四次中東戦争勃発のニュースがとびこんでくる。江坂が購入する原油価格は暴騰、一方、製油所では最新式の設備の操作不慣れから事故が続出、加えて従業員のストライキが勃発、予想もしなかった赤字が続き、その額はたちまち数億ドルに膨れ上がっていく。江坂産業は、新興企業だが、社内は創業者のワンマン経営時代からつづく派閥抗争などで近代的な経営になっていない。そのうえ、創業者のあとを継いだ現社主・江坂要蔵は、白磁などの骨董に熱中していて、業務には背を向けている。それでいて人事権だけは握って離さない。そういう経営体質もあって、石油事業での失敗による打撃に歯止めがかからず、経営破綻へと追い込まれていく。作者のていねいな筆でその顛末が克明に描かれていく。

 多くの登場人物のなかで、詐欺師まがいの起業家アルバート・サッシン、野心を募らせる上杉二郎、そして、骨董に夢中になって事業を顧みない江坂要蔵と、この3人に作者の的はしぼられていく。サッシンはレバノン人であるため、アメリカ社会でユダヤ人のように差別されてきた。上杉もハワイ系二世としてさげすまされてきた経歴をもつ。こうした境遇をバネにのし上がる人間と、大企業の創業者の跡継でいながら、自分の趣味だけに生きる要蔵と、この3人の対照的な生きざまに向ける作者の眼には、学歴の無い石版工として下積みに苦しんだ作者自身の体験が重なっているといえようか?(2018・10)

浅田次郎『長く高い壁』(角川書店)

 日本ペンクラブの会長を務めたこの作家の作品をこれまで一度も読んだことがなかった。日本がおこなった戦争の実相に迫るという新聞書評を見て、読んでみようという気になった。それなりに面白かったが、いま一つ印象が薄いのはなぜだろうか?

 舞台は1937年、日中戦争が本格化する時代である。売れっ子の推理作家の小柳逸馬は、従軍作家として北京に派遣される。北京ではなすべきこともなく、見聞した街の様子をエッセイに書くが、川路という検閲担当の若い中尉に書き直しを命じられる。左官待遇とされる従軍作家の軍内での立場を改めて認識させられているとき、前線への派遣を命じられる。行く先も目的も一切伏せられたままで、同行は川路中尉だけである。いったい司令部はなにをたくらんでいるのか?

 北京から車で半日かけ着いた先は、満州との国境近く、万里の長城の壁がある張飛峰というところである。ここには1000人規模の日本軍が駐留していたが、支配圏を「満州」から中国東北部へ拡大しようとする日本軍が、その中心になる作戦、武漢への攻撃、いわゆる武漢作戦を開始したため、部隊の主力はこの作戦に投入された。残されたのは、士官学校を卒業したばかりの若い将校と戦力にならない老病兵と犯罪歴などを持つ問題兵30人だけである(ほかに若干の憲兵部隊は残る)。この30名は、三班に分かれて、交替で万里の長城にある陣地などを守っていた。ところが、そのなかの1班の10人がある日毒殺らしい変死体で発見される。現地の憲兵隊長らは共匪の仕業として処理しようとするが、現地の憲兵隊を実質的に指揮する小田島曹長は不審に思い、懇意にしていた司令部の将校に通報する。残留部隊内の不祥事を内密に調査し、処理しようというのが司令部の意向であった。探偵作家の小柳が張飛嶺に派遣されたのはその仕事のためだったということが、次第にあきらかになってくる。

 小柳は、川路中尉や小田島曹長と協力して兵士の聞き取りから事件の調査にあたるのだが、残された小隊の実態は、これが日本軍かと目を覆いたくなるばかりである。武漢へ派遣された部隊の主力は、大量の兵器、弾薬、食料、医療品などを残していった。残留部隊のなかの幾人かは、これらの遺留品を現地住民に密売してたっぷりともうけて遊興にあてるなど、軍紀の弛緩どころか、犯罪者集団にも劣らない腐敗、堕落の極みといった事態が広がっている。

 それにしても、毒殺だとするとだれがどこから毒薬を手に入れ、どういう処方で殺害におよんだのか? そもそもこの犯罪は分隊内部の腐敗した兵士同士の抗争によるものではないか? 謎は深まる。そんななかで、現地住民に尊敬されている医者が疑われて憲兵隊長に射殺される。ところが、この殺人は、実はもっと深いところでくわだてられていたことが最後に暗示される。

 こうして、戦線を中国全土に広げ、そのためにあきらかに兵士不適格者まで動員していった日本軍の実態が赤裸々に描かれ、さらに自軍の兵士たちの命をもてあそんで恥じない軍指導部の非人間性に迫っている。軍内部の暴力や人権じゅうりんなどは、これまでもそれなりに書かれてきたが、非行、犯罪者集団と化していく日本軍の内部の実相にまで迫った点では、ユニークな作品である。ただ、せっかく派遣された探偵作家、小柳の影が薄く、事件の解明にどういう力を発揮したのか、抽象的な言葉で説明があるだけで定かでない。そもそも、軍隊のなかでは自由に行動もできない従軍作家を軍内の不祥事解明のために派遣するという設定そのものに無理があったのではないか、というのが、私の率直な感想である。(2018・9) 

 

村山由佳『風は西から』(冬幻社)

 作者は『ダブルファンタジー』など恋愛小説をもっぱら書く人と思っていたら、ブラック企業をテーマにした社会的な作品を書いたというので読んでみることにした。

 和民をモデルにしたとすぐに推定される外食系大手企業・山瀬に働くまじめで責任感の強い元来快活だった青年、健介が、肉体的にも精神的にも疲労困憊し、ボロボロになるまで追い詰められてマンション6階から投身自殺する。その一段一段を恋人で食品メーカーの営業部に勤める千春という女性の眼をとおしてリアルに描き出している。

 もともと過重労働でデートもままならない状況に置かれていた健介は、ある繁華街の店の店長に就く。人手不足を解消するための人員補給を何度本店に要請してもなしのつぶて、始業2時間もまえに出勤して開店の準備にあたり、閉店後もアルバイトを帰した後深夜まで残業、終電に間に合わず、職場のソファーで夜を明かす。たまの休日には、本店の企画する研修がびっしり、建前は自主参加だが事実上の強制、終わればレポートをまとめなければならない。

 そのうえ、一日の売り上げが本店の定めた業績ラインを割るようなことがあれば(これをテンプクという)、一番忙しい土曜日の朝、本店の呼びつけられて、20人もの役員の前で徹底的につるし上げられる。暴力こそふるわれないものの、すべての人権と人間の尊厳を踏みにじる集団リンチである。二度とこんな目にあわないないために、出勤簿から自分の勤務時間を自発的に削ったり、アルバイトを所定の時間前に帰宅させたりして人件費を浮かせる。そのぶん、深夜におよぶ自分の残業でカバーする。

 健介はこうした過酷な労働によって心身ともに蝕まれていくのだが、その一歩いっぽを心配しやきもきし、みずからも傷つきながら見守る恋人の視点で描いているところに、この作者らしいところがある。そしてそのことによって、問題の深刻さと残虐さがよりリアリティをもって読者に迫ってくる。たとえば、健介の自殺の直前に「健ちゃんなら頑張れる」と励ました言葉が、自殺への残酷な後押しになったのではないかと、千春は自分を追い詰めざるを得ないのである。

 健介の実家は、広島で地域に愛される飲食店を経営している。大学で経営学を学び、就職先で経験を積んで両親の店を継ぎ店の規模も広げたい、というのが健介の夢であった。両親もそういう息子を自慢に想い、期待もしていた。健介の死にたいする会社の対応にどうしても納得できないのは、千春だけでなくこの両親であった。3人の必死の努力で労災は認定されても、会社は健介の死にたいして会社としての責任を認めず謝罪もしない。会社側のかたくなな態度で調停も不調に終わり、何年にもおよぶ裁判闘争にもちこまれる。しかし、弁護士の協力によるマスコミへの対策も効果をあげ、ブラック企業のイメージも広がり、山瀬は次第に追い詰められていく。創業者でワンマンの社長が、ついに頭をさげ、裁判は勝利に終わる。

 モデルとなった事実がそうなのだが、ブラック企業の犠牲になる若者の悲劇にとどまらず、これを告発し、たたかい抜き、勝利するまでの苦闘がえがかれているところに、この作品の大きな特徴がある。恋愛ものをもっぱらにしてきた作者がよくぞここまで書き抜いたものと感服し、敬意を表さないわけにいかない。そのたたかいのなかでは、ブラック企業で働く労働者の協力、内部告発が大きな役割をはたしている。千春のたたかいを温かくみまもる職場の同僚たちの存在も見逃せない。働く人たちの連帯が、そこに生き力を発揮しているのを確認できる。こうした作品が民主的な陣営の書き手からこそ、もっともっと書かれることを期待したい。(2018・9)

ジェフリー・アーチャー『嘘ばっかり』(新潮文庫、2018・8)

 作者は現代のディケンズを自任している。この間、7年がかりで『クリフトン年代記』という超大作を上梓したばかりである。まずしい造船労働者の息子であるクリフトンは、母親の献身的な努力によって、パブリックスクールを卒業して、ケンブリッジ大学に学ぶ。そこで、造船会社の経営者の御曹司であるジャイルズと親友になり、その妹エマと恋愛、幾多の試練を経て結婚にこぎつける。クリフトンは、作家として成功し、ソ連で収容所に監禁されるサハロフ救出などの運動でも国際的な評価を得るに至る。一方、ジャイルズは労働党選出の代議士になり、国政を舞台に活躍する。エマは、父親の造船業を引き継ぎ経営者として力を発揮し、押しも押されもしない実業家として成功の道を歩む。この三人を中心にした親子三代にわたる大河小説である。本作は、この大作を書き終えたばかりの作者の短編集である。新作だけではないとはいえ、そのエネルギーに感服するしかない。

 この短編集には16編の作品が収められている。そのなかに表題の「嘘ばっかり」という作品が見当たらないのはどういうわけだろう。このあたりにも、作者の諧謔を読み取ることができて面白い。16編のなかには、珍しい試みが見られる。そのひとつは、冒頭の作品「唯一無二」と最後から二つ目の「完全殺人」である。「唯一無二」は、ニューヨークのリーダイスダイジェストから、百語きっかりで起承転結のある物語を書けるかと挑まれたのに応じたものとある。唯一無二の切手の二枚目が発見されたというディーラーの前で、コレクターがその切手を焼き捨てて「唯一無二」を説くという話である。「完全殺人」も同じ系列の作品である。

 もう一つユニークなのは、本書の最後に、作者の代表作である『カインとアベル』をも、『クリフトン年代記』をも上回る傑作という触れ込みで、次作の予告にとどまらず、その最初の3章を収録していることである。次作の予告はこれまでもありえたことだが、実際にその作品の一部を予告的に掲載するという試みはかつてなかったのではなかろうか。この辺りにも、この作者の意表を突く面白さをみることができる。旧ソ連でKJBに夫を殺害された主人公の女性エレーナと息子のアレクサンドルは、エレーナの弟の協力を得て秘かにソ連を脱出しイギリスに向かう、というのがその内容である。たしかに、途方もないスペクタクルと大ロマンスを予感させる。巻末の解説によると、すでに原文は訳者のところに届いていて、年末には翻訳が刊行される予定という。いまから楽しみである。

 収録作品のうち、特に私の興味をひいたのは、「だれが町長を殺したのか」という作品である。イタリアのナポリの北にあるコルトリアという集落が舞台。ワインとオリーブ、トリュフの産地で、平和で豊かな暮らしを何百年も続けてきた。この村に突如としてマフィアの親分でもあるかと思わせる外来者、ロセッティが闖入し、村長の座につく。たちまちのうちに重税と脅迫によるミカジメ料が村民を襲う。村民がその圧政に耐えがたくなっているときに、ロセッティが何者かによって殺害される。ナポリから派遣された若い刑事が捜査にあたるが、村の有力者のだれもがロセッティを殺したのは自分だと自主的に証言する。しかし、殺害方法などを問うといずれも警察の検視報告と矛盾する。ほとほと困惑する刑事ははたしてどう対処したか、という話である。

 アーチャーは、若くしてイギリスの下院議員に当選。しかし詐欺に遭遇して全てを失うが、その顛末を「百万ドルをとりもどせ」という作品に書いて、これがベストセラーに。今度はロンドン市長選に打って出て当選するが、高級娼婦のからむスキャンダルに巻き込まれて、逮捕、禁固刑に処せられる。その顛末を『獄中記』などに書いてヒット、現代イギリス作家の押しも押されもしない第一人者となっている。,その経歴そのものが、何ともスケールが大きく波乱万丈そのものである。こんな作家は、世界中を探してもお目にかかれないだろう。(2018・9)

あだたら高原・岳温泉逗留記(2018・9・3~6)

  今年の夏は文字通りの酷暑でとても遠出をする気にならず、冷房の効く部屋にとじこもりきりであった。夏ばてをのりきるためにも、9月に入ったらどこか温泉にでもということになり、次女に探してもらって推薦されたのが福島県のあだたら高原にある岳温泉である。高村光太郎の妻、千恵子の故郷で、心を病んだ千恵子が「東京には空がない」というのであだたらに連れ帰ったら、「この空こそ本当の空だ」と喜んだという話はよく知られている。そんなことも念頭にあって、一度は訪れてみたいと思っていたところである。

 次女によるとJRとホテルとの契約でウィークデーの一定の時間帯にかぎる格安のツアーが提供されているとのことで、それにあやかって、あだたら高原・岳温泉にある櫟平ホテルに3泊4日の逗留計画を組んだ。ところが折悪く、超大型の台風21号がちょうどこの時期に来襲するとのこと、取りやめようかという妻の提案もあったが、山登りはむりにして、温泉でのんびりできるのだからと、ともかく行ってみようと決断する。

 

<第1日>

 9月3日朝、小田急ロマンスカーで新宿へ、そこから中央線快速で東京駅に赴く。東京の中心オフィース街を目にするのは久々である。駅の売店で私はサーモンの蒲焼、妻はサンドウィッチを昼食弁当に買って、12時30分発の東北新幹線に乗る。東京駅を離れてしばらくすると田園風景が広がる。稲穂が色づいてそろそろ稲刈りの季節到来を告げている。そんな景色を眺めているうちに郡山駅に到着、在来線に乗り換えて二本松駅で下車する。二本松駅は初めてだが、駅前に戊辰戦争で戦った少年兵であろう、剣をかざした若者の銅像が目にとまる。ホテルから送迎のマイクロバスが待機していたので乗り込むが、これがなかなか発車しない。運転手は何も説明をしてくれないばかりか、ワイシャツのボタンをはずして胸をはだけているなど不快な印象をぬぐえなかった。これが今回の旅行の第一印象で、幸先は良くはなかった。

 ようやく発車したバスは、広い田園地帯を一路あだたら高原をめざす。約20分で岳温泉に到着する。あだたらはなだらかな起伏の高原で、のびやかな丘陵地帯と言ってよい。その裾野に岳温泉があり、温泉街のとりつきに鏡ケ池という静かなたたずまいの池がある。そのほとりに建つ大きく立派な近代ビルが目に入ってくる。これがわれわれの泊る櫟平ホテルである。ホテルのロビーは天井が高く広々としている。フロントの女性たちは親切でテキパキと客をさばいている。私たちの部屋は、4階の404号室で、落ち着いた感じの和室である。部屋の窓からは鏡ケ池の全景が眼下に広がる。まるで箱庭のような景観で、二人ともとても気に入る。天候は荒れ模様だが、夕方になると雲が切れてきて、部屋の反対側の廊下からあだたら山のなだらかな稜線を目にすることが出来た。

 さっそく浴衣に着替えて温泉に浸かることにする。浴場は一階にあり、大浴場に露天風呂、薬草湯もある。夕方5時までという時間を切って、露天風呂に隣接して樽酒のサービスがついている。木製の升に紙コップを置いてこれに樽酒を注ぎこんで、湯につかりながら飲むのである。さっそくこれにあやかる。夕食はやはり一階にある広いレストランで、和食である。ビールで乾杯し、地酒を呑みながらゆっくりと堪能する。

 

<第2日>

 台風の接近で天候は荒れ模様である。早朝、朝風呂に浸かったあと、どんより曇った空をながめながら散歩に出る。鏡ケ池をぐるりと一周し、その隣にある緑池をも周回する。萩の花がはやくも咲いている。池にはカルガモが何十羽も住みついていて、悠然と泳いでいる。湯上りにすがすがしい高原の空気を吸い込み、すっかりリラックスした気分になる。

 妻と今日の行動について相談する。ロープウエイであだたら山へ登るのが今回の旅の一番の目的なのだが、台風の接近で山はガスがかかっていて視界がきかない。それでも行くかどうか思案する。そもそもロープウエイが運行するのかどうかも分からない。フロントに相談すると、ロープウエイの駅に問い合わせてくれ、運行はするが、風が強まれば休止することになるという。そこで、きょうの山行きは断念する。台風が一番接近するのは今夜だから、明日は晴れるかもしれない、と翌日に期待をつなぐ。

 そこで部屋でゆっくりした後、温泉街を散策する。朝散歩した池の周りを妻と一緒にもう一度まわったのち、ホテルから山の方に伸びる道路に沿って坂道をゆっくり登る。

ホテルを出ると道の両側に桜の老木がつづく。桜坂という。少し歩くと左手に足湯の小屋がある。その先が十字路になっている。これを渡ると、広い道の両側にホテルや旅館、お土産屋や飲食店が並ぶ。道路の真ん中にはヒマラヤスギが植えてあり、そこからヒマラヤ大通りと名がつけられている。坂道を登りきると正面に温泉神社という社がある。ここが、あだたら山への登山口入口である。そこからさらに5キロメートル登ったところに登山口、ロープウエイの乗車駅がある。奥岳温泉もここにある。 

 お昼になったので、街中にあった蕎麦屋で蕎麦を食べる。午後は、部屋で読書に勤しみ、夕方もう一度散歩に出て、お風呂に夕食へとつなぐ。文字通りのんびりした一日であった。

 

<第3日>

 台風は昨夜通り過ぎたようである。四国、近畿地方に上陸し、秋田沖に抜けたとテレビは報じている。近畿、とくに大阪に大きな被害をおよぼしたらしい。関西空港が使用不能になり、3000人もの人がすべての便が欠航した空港内で夜を明かしたという。

きょうは台風一過だが晴天は望めない。しかし、次第に天候が回復していくことは間違いなかろう。だったら、今日は山へ行くべきだ。こういう論建てで自らを納得させて朝からロープウエイであだたら山へ挑戦することにする。

 山用の服装と雨具、傘などを装備して、8時45分にホテルの車で出発する。一行はわれわれ夫婦の他、女性二人に男一人の家族らしい三人組の大人だけである。マイクロバスは、昨日散歩で訪れた温泉神社のわきを通って一路、登山口をめざす。霧がかかっているが濃い緑に覆われた高原はすでに秋の気配もして心地よい。こちらの願望も加わってか、ガスは次第に薄れていくように感じられる。9時に、ゴンドラの発着駅のある登山口、奥岳温泉に到着する。駅は、山頂に伸びるなだらかな草原の斜面に据えられている。ロープウエイを降ってくるゴンドラが、霧のなかから突如として姿をあらわす。文字通り深い幽玄の世界である。

 さっそくゴンドラに乗ってあだたら山の稜線に連なる薬師岳にむかう。約10分で到着する。到着駅は、他の同様の施設が自慢するような展望はまったく期待できない。ここから約250メートル程離れたところに薬師岳展望台があり、そこまで脚を伸ばさないと眺望を楽しむことはできないようだ。ゴンドラを降りるとすぐあだたら山山頂への登山道に入る。紫色の可憐なリンドウの花があちこちに咲いている。登山道は木道となっていて歩きやすいのだが、さほど高くはないが人間の背丈を超える灌木に周囲を覆われて、視界はまったく閉ざされ、ただひたすら歩くだけである。やがて木道も終わり、赤土に岩が目立つ歩きにくい山道になる。杖をたよりの私はどういうわけか、山道へ入ると元気になるのだが、3、40分歩いて、次第に後方に遅れる妻を待ちながら、これ以上進んでも視界は開けそうにないと判断し、このあたりで引き返す決断をする。もともと山頂までは無理とあきらめていたので、予定通りの退却である。

 登山道をもどって、薬師岳展望台に出る。岩だらけのガレ場で、なんのいわれか大きな鐘が据えられ、「この空が本当の空」という高村智恵子の言葉を刻んだ塔が建っている。幸いなことに霧も晴れてきて、ここからはあだたら山の全景を望むことができた。おかげでゴンドラを降りて以来の欲求不満は解消し、しばしのびやかな稜線からひろがる緑の景観を堪能する。今回の旅の最大の目標はこれで達成したことになる。

 ゆっくり休んでゴンドラで降る。ゴンドラ駅の周辺は、イルミネーションの施設が設置されていて、夜間には美しい光の世界を創出してくれるようだ。近くには奥岳温泉の入浴施設もある。ホテルのマイクロバスで宿にもどり、昼食をとった後ゆっくり読書、夕方になってホテルの下方、鏡ケ池の西側へ散歩にでる。コスモスの咲くのどかな高原をゆっくりと歩く。今日は私の誕生日である。夕食には、ビールでお祝いの乾杯をして、地酒をゆっくり賞味する。この歳まで生きのびようとは考えもしなかったが、さてこれからどう生きていくか、そんな思案も頭をかすめる。

 

<第4日>

 きょうは帰るだけである。いつも通り早朝、湯につかり、鏡ケ池周辺を散歩。朝食の後、9時30分にホテルのマイクロバスが出発し、二本松駅にむかう。本来なら、二本松で二本松城跡や千恵子記念館を訪れたいところだが、格安ツアーの悲しさ、帰りの新幹線の列車時刻は指定されていて、変更は許されない。せめてもの記念に、JR二本松駅をカメラに収める。

 郡山までの在来線の列車の窓からは、色づいた田園のかなたにあだたら山の全景をのぞむことができる。名残りを惜しみながら、その姿を脳裏にしっかりと収める。新幹線は郡山10時37分発である。昼過ぎには東京駅に到着する。駅の弁当売り場の片隅に、休憩のための椅子とベンチが据えられているところがあり、そこで昼食をとる。ウニイクラ丼とサンドウィッチである。レストランはいまどきどこも勤め人で混んでいるだろうというのが、そこを選んだ理由である。自宅には3時前に到着する。台風に脅かされはしたものの、遅ればせの夏休みはまずまずの首尾というところか。