池井戸潤『鉄の骨』(講談社文庫)

 2010年の吉川英治新人賞を受賞した作者の代表作の一つとして広く知られているが、購読の機会がなかった。このほど文庫化されたので読むことにした。やはり面白く、700ページ近い長編にもかかわらず、一気に読み上げた。ひところ大きな社会問題になった建設業界の談合問題をテーマにした作品で、巨額の地下鉄工事をめぐるゼネコン各社の談合と、これを追う検察特捜部という設定に、自民党建設族の大物代議士の介入と政治資金問題がからむ。

 長野出身の富島平太は、上京して目にした東京の高層ビルに感動し、建設の仕事にあこがれて大学で建築学を学び中堅ゼネコンの一松建設に就職して現場で4年になる。この平太がある日突然、本社の業務部に配転になる。業務部とは、もっぱら公共事業の受注に携わる部署で、別名談合課と呼ばれている。ゼネコン各社は社会的な批判を浴びてどこも脱談合宣言を出しているが、これは表向きで、実際には談合なしには、過当競争による赤字入札で経営が成り立たなくなる。いわば必要悪として、談合はまかり通っている。

 平太が回された業務部では、社の実力者で常務の尾形を中心に、課長の兼松、実力者で仕事を実質的に取り仕切る西田がいる。ここの仕事は、作業服で下請けの作業員と一緒に働く現場とはまったく次元を異にし、公共事業を受注できるか否かに社運を賭けた熾烈なたたかいの毎日、緊張の連続である。受注するためなら談合は当然、とやかくいう余地はまったくない。平太はそんな雰囲気にいやおうなく飲み込まれ、これが仕事とみずからを納得させていく。しかし、そうした平太の変化は、大学同期で一松建設のメインバンクに勤める恋人、萌えとのあいだに微妙な亀裂を広げていく。平太とて談合が良くないことは承知している。しかし談合を批判する萌えと自分のあいだには超えることのできない溝ができつつある。萌えの心も、彼女に思いを寄せるエリート銀行員の園田に傾いていく。

 この業界には、談合をとりまとめるフィクサーの三橋がいる。業界内では天皇と呼ばれている。平太は、同じ長野出身ということで、この三橋のもとに出入りするようになる。知り合いになってみると、意外にも三橋が談合には批判的で、そこから脱出したがっていることを知る。しかし、三橋の背後には妻の兄である城山代議士がおり、その政治資金調達のため談合で特定企業に落札させ、その企業から多額の政治資金を吸い上げるしくみを、どうすることもできない。それどころか三橋自身、城山の手先として談合の取りまとめ役を引き受けている。検察の捜査の手もひたひたとのびてくる。

   そんなおり、巨額を投じる地下鉄工事の受注合戦が始まる。常務の兼松は、単独の競争入札で臨むと決意し、西田はその実現のために全精力を注入する。ところが、社長の強い意向で兼松常務が突然談合を受け入れ、西田らは唖然とする。

 こんな展開の話だが、平太にしろ、西田にしろ、あるいは三橋にしろ、談合にはそれぞれ批判を持ちながら、業界のしがらみ、伝統的な体質、政治資金がらみの政界との癒着構造からぬけだすことができない。「変化には犠牲がつきものなのさ」とは、たしか三橋のことばだが、だれがその犠牲になるか、進んで買って出る者はいない。結局のところ、検察の介入に待つしかないのか? 資本主義の企業、業界とそこにおける人間との葛藤、一人ひとりは人間としてのモラルや感情をもちながらも、企業、組織のなかではどうにもならない不条理をこそ、この作品は描き出している。そこに単なる企業小説、特捜ものではない、人間的な味わいがあるといえよう。(2020・4)

アルベール・カミユ『ペスト』(宮崎峰雄訳、新潮文庫)

 新型コロナ・ウィルスによる緊急事態宣のもと、カミユの『ペスト』を読んだ。第二次世界大戦直後の1947年に発表された作品で、執筆されたのはフランスがナチスに占領されていた時期に重なる。フランス政府はナチスに屈したが、ナチスに対するフランス人民のレジスタンスがたたかわれ、作者自身もこれに加わっていた。思想信条、政治的立場や職業のちがいをこえてファシズムに反対し自由と独立をめざしたフランス人民のたたかいを、歴史的な背景に書かれた作品である。

 舞台は当時フランス領だったアルジェリアのオマンという海岸に面した都市である。医師のリウーが或る朝、診察室から往診に出かけようとして、階段で一匹のネズミの死骸を発見する。つづいて街のあちこちでネズミの死骸が見つかるようになる。医師宅のネズミを始末した門番の老人が高熱を出して、あっという間に死去する。熱病はまたたく間にひろがり、街中が不安と恐怖におののく。患者は、40度以上の高熱をだし、絶え間なく譫言をくりかえし、吐き気とともに頚部のリンパ腺が異様に腫れる。やがて、ペストと判明、県知事が非常事態宣言を出し、オマンは完全に封鎖(ロックダウウン)される。患者の隔離はもとより、オマンに通じるすべての道路が閉鎖され、交通機関もストップさせられ、郵便も止められる。たまたま街を離れていた人は帰ることができなくなり、街を訪れていた人は市内に閉じ込められる。強硬に脱出しようとする人が州兵と衝突して騒乱が起きる。

 隔離病棟は公共施設などに際限なく拡張され、医師をはじめ医療関係者は肉体的限度を超えて働き、疲労困憊の極に達する。死体処理が追いつかず、囚人をも刈り出さざるをえなくなる。人々の不安といら立ちは募る一方で、絶望とあきらめの空気もひろがっていく。教会の中央聖堂では、パヌール神父が、神の怒りによる「当然の報い」と言い放ち、人々に罪を悔い改めるようよびかける。

 そうしたなかで、リウー医師と友人で滞在中のクルー、市役所の職員のグランらは、自発的に救援隊を組織してペストとのたたかいにのりだす。そのようすが、淡々とつづられていく。新聞記者のランベールは、たまたま滞在中にこの騒動に巻き込まれ妻をパリに残してきたままなので、なんとしても市を脱出しようと、非合法の手段も含めてあらゆる手立てをつくす。しかし、ようやく脱出の目途がついたとき、彼はリウーらの活動に加わり続けるのが自分の責任だと決意を新たにする。そして、いつのまにか、パヌール神父も救援隊の活動に熱心にとりくんでいる。この人たちの活動は、一つ間違えば自ら死を招く危険な仕事である。

 ペストの恐怖が重く全市を支配するなかで、危険を冒して黙々と働くこの人々の姿は、神を信じるものも、信じないものも、政治的立場、信条の違いをこえて、ファシズムとのたたかいにたちあがり、連帯したフランスの人々の勇気と献身を、読む人に想起せずにおかない。この作品が発表されたさい、フランス人のあいだに湧きあがった共感は、なによりもそのことをしめしているのではなかろうか?

 カミユは、前作の『異邦人』に顕著だったように非条理の文学、実存主義哲学の文学といわれ、本作もその延長線で語られることが多いようである。ペストに象徴される非条理に直面する人間といったモチーフである。しかし、本作にかんするかぎり、フランスの人々がナチスとのたたかいで示した勇気と献身、連帯と友情の精神を体現しているところにこそ、その真価があるのではなかろうか?(2020・4)

吉田裕『兵士たちの戦後史』(岩波文庫、2020・2)

 もともと『シリーズ戦争の経験を問う』(岩波書店、2011)の一冊として刊行された著作である。内容的には、評判になった『日本軍兵士』(中公新書)の続編といえよう。

 日中戦争以降の軍人・軍属の戦没者は230万人といわれる。そのうち、栄養失調による餓死者と、栄養失調による体力消耗の結果、マラリアなどにかかって亡くなった事実上の餓死者を合わせると140万人にのぼる。ほかに、37万人が艦船や輸送船による海没死している。そのほか、無謀な特攻死もある。多くの将兵が軍指導部の無謀な作戦により文字通り犬死に等しい死に方をしている。この人たちには、当然のことながら戦後は存在しない。

 問題は、生き残った将兵である。敗戦の時点で日本の陸海軍は、本土に436万、海外に353万、合計789万名の将兵を配属していた。ポツダム宣言の受託とともにこの大部隊を帰還、解体させなければならなかったのだから、想像を絶する大事業であった。そして、帰還将兵一人ひとりの戦後がそれから始まる。敗戦により、天皇のためお国のための聖戦という大義を失い、戦友たちの遺体を残しての帰還にぬぐいえない罪悪感を抱きながら、そのうえ、敗戦をもたらした張本人として国民から白い眼を向けられながら、この将兵たちの戦後は始まった。この人たちは、年齢と健康の面でも知能の面でも、廃墟から立ち直る日本の戦後復興を担い、高度経済成長を支える中心となった人々である。その屈折した複雑な心理を伴った歩みを、丹念に追跡したのが本書である。

 とりわけ興味深いのは、旧陸軍将校の親睦・相互扶助を目的にした偕行社、旧海軍の水交社、傷痍軍人会、軍人恩給復活のための軍恩連、遺族会、戦友会などの諸団体に組織された旧軍人の動向が、地方の組織などをもふくめて豊富な資料収集にもとづいて追跡されていることである。そこには、靖国神社国家護持や大東亜戦争肯定論などの右翼的イデオロギーと運動を先導する役割とともに、そうした動向に批判的な潮流の存在、旧陸士・海兵出身の高級幹部と下士官、兵士らとの矛盾、対立、悲惨な戦争の実態や中国などへの加害にたいしてどういう姿勢でのぞむかをめぐる葛藤と対立などが、将兵たちの複雑な心境にもそくしながら、ていねいに分析・紹介されている。戦後日本の背骨の役を担った人々の歩みに踏み込んだ貴重な研究といってよいであろう。

 とりわけ印象深いのは、近年、旧軍人の高齢化がすすみ、旧軍人の諸団体が存続できなくなってきていることである。それをやむを得ないと悟りつつも、やり場のないさみしさを口にせざるを得ない旧軍人の心情は、同情を禁じ得ない。同時に、旧軍人団体が、戦場の凄惨な実態や加害・犯罪行為を口止めし、仲間同士のうちうちにとじこめる実質的な縛りになっていたことも事実である。旧軍人団体の消滅、弱体化は、そうしたしばりから兵士たちを解き放ち、戦場の生々しい実態の証言へと道を開いたという指摘は、大切である。そのなかには、従軍慰婦問題にもかかわって、中国戦線で婦女暴行を繰り返したみずからの体験を語る兵士のことも、そのことに関してはだけ口を閉ざすのが多くの兵士たちの実情であることとともに、紹介されている。

 著者は元兵士たちの戦時・戦後体験の持つ歴史的意味を以下のようにのべる。「第一には、戦争という行為の悲惨さや虚しさを身をもって体験し、『帝国陸海軍』がいかに非人間的・非合理な組織であり、深い亀裂の入った分断された組織、つまり構成員間の一体感が欠如した組織であったかを知りぬいた多数の人々がこの社会の中に存在していたこと自体の重みである。すなわち、自衛隊という軍事組織を持ちながらも、相対的には軍事化の進展の低い社会を維持することができた重要な理由の一つは、兵士であった人々の軍隊観や戦争観が社会全体に浸透していったからだった」と。重い意味をもつ指摘である。(2020・4) 

 

 

門井慶喜『定価のない本』(東京創元社、2019・9)

 作者は2018年に『銀河鉄道の父』で直木賞を受賞している。1971年生まれである。本書のタイトルは、古本のことである。古書には定価がない。古本屋は古書をいくらで売ろうと自由である。古本はそこに無尽の文化や歴史が内蔵されていることから多面的な関心の的になりやすく、古書をテーマにしたミステリーが結構ある。本書もその一つである。アメリカ占領軍の支配下にあった敗戦直後の日本を舞台にした奇想天外な物語である。

 話は、東京神田の古書店主、吉松が、書庫のなかで棚から落下した古書に押しつぶされて圧死しているのを発見されるところから始まる。発見者の妻から通報を受けたやはり古書店主の琴岡庄治が現場にかけつけると、何者かに襲われる。あわやというところをたまたま居合わせた占領軍(GHQ)の兵士、ハリー軍曹に助けられる。そして、上官を紹介するからと、総司令部の一角となっている旧岩崎邸へ出頭するよう要請される。庄治が岩崎邸に赴くと、GHQ参謀第二部のジョン・C・ファイファー少佐に引き合わされる。少佐は、吉松が共産主義者ソ連のスパイであった可能性があり、その死が他殺であることをほのめかすとともに、事件後姿を消した吉松の妻、タカの行方の捜査への協力を求める。吉松が妻のタカに殺されたのではという疑惑も浮かぶ。こうして、庄治はGHQと次第に深くかかわるようになっていく。

 当時、アメリカによる軍事占領下の日本は、GHQの指令によってそれまでの施策や制度慣行などが次々に否定されていく。軍人、政治家が戦犯で逮捕され、それまで国賊として監獄に入れられていた政治犯が釈放されるなどなど。そうしたなかで、日本の伝統や歴史、文化も否定されていく。歴史教育も禁じられる。そのこともあって、当時、古書は戦後の混乱のなか飛ぶように売れるのだが、庄治のあつかう『源氏物語』や『平家物語』などの古典籍はさっぱりで、庄治一家は食うものもない窮乏を強いられている。ところが、ある日、ファイファー少佐が、日本の古典籍を大量に買うという。庄治があつめた古典籍は片端からファイファ―の手にわたり、庄治はたちまちのうちに懐が豊かになっていく。なぜファイファーが日本の古典籍を買いあさるのか? その謎がやがて明らかになる。

 GHQにダスト・クリーニング計画なるものがあり、ファイファーはその秘密の執行者だというのである。ファイファーによると、ダストとは「戦前の君たちを肥満的な軍拡へと駆りたてたもの、非人道的な大陸侵略へと駆りたてたもの。そうしてあの卑怯きわまる真珠湾攻撃をおこなわせた上、悪いのは自分自身だとまったく悟らせることをしなかった最大の原因であるところのもの。邪悪な粉塵、不潔黴菌。そう。歴史だ」という。つまり「萬世一系」に象徴される自国の歴史に対する日本国民の自負と誇りが、戦争にかりたてたのだから、この歴史を抹殺する、そのために古典籍を日本から一掃するのだという。古典籍の買い占めはそのためで、庄治はその手先として利用されているという。吉松も利用された一人で、そのことの恐ろしさに気づいた。彼が死んだのはそのためだ、ということもわかる。

 そこで、庄治たちの大作戦が開始される。GHQによる日本の歴史抹殺をゆるさないための神田古本屋総勢による国の命運をかけたたたかいである。最初に、本書について奇想天外と書いたのは、このことである。庄治のお得意さんに右翼文筆家だった徳富蘇峰を頻繁に登場させているのも、そうした文脈の一環としてである。話は、あまりにも奇想天外といえよう。GHQによる日本の文化と伝統退治という発想は、面白いと言えば面白いのだが、あまりに現実離れしていて、リアリティを欠くといわざるをえない。

北杜夫『楡家の人びと』(全3部、新潮文庫)

 この作品に特別の思いを込めたエッセイをたまたま最近ある新聞で読んだことが一つのきっかけになって、そのうちにと伸ばしてきた本作にいどむことになった。1964年に刊行されているから、すでに半世紀余を経ていることになる。三島由紀夫がこの作品について、「この小説の出現によって、日本文学は真に市民的な作品をはじめて持ち、小説というものの正当性を証明するのは、その市民性に他ならないことを学んだといえる」とのべたことはよく知られている。

 三島の指摘がどこまで当を得ているかは別として、本作は精神病院を経営する一家の三代にわたる歴史を丹念につづった長大な力作である。作者は、若くしてトーマス・マンに心酔し、とくにマンの出身地である北ドイツの小さな町、リューベックを舞台に、ハンザ同盟の系統をひく由緒あるマン自身の家族の歴史を描いた「ブッテン・ブローグ家の人びと」を読んで触発され、みずからの家族の歴史を小説にしようと思い立ったという。そういう視点で読むと、なるほどと納得させられるところも多い。

 作者の父は、著名な歌人でもあった斎藤茂吉(作中では楡徹吉)であり、祖父は、福島県の上ノ山から上京し、一代で青山に有名な精神病院を創立した斎藤喜一郎(作中では楡基一郎)である。そして作者の兄は、作家の斎藤茂太である。もちろん、小説だからフィクションも多く、事実をそのまま伝えているわけではない。にもかかわらず、創業者・基一郎から三代に連なる精神病院という特殊な施設を運営する市井の一族の歴史を通じて、明治、大正、昭和と生きたごく普通の日本人の生きざまが、いとおしくせつない響きを帯びながら読者の胸に伝わってくる。

 なによりも登場するそれぞれの人物がユニークで個性的である。病院創業者の基一郎は、有能で如才なく人が良いが見栄っ張りではったりや。政友会から衆議院議員にもなる。年に一度病院の全職員を集めて大演説をぶち、演技たっぷりに一人ひとりへ賞与を手渡す。患者の耳に聴診器をあて、「君の脳は腐っている。だが心配するな。僕はオーソリティだからかならず直してやる」とうけあう。これが意外に患者の信頼を得ることになる。基一郎は、秀才だがまずしく進学できない同郷の徹吉を養子にして、学習院を出た長女・龍子の婿に迎え、病院経営の後継者にする。父をだれよりも尊敬する龍子は母譲りの凛としたプライドの高い女性である。婿とは肌が合わないばかりか、軽蔑さえしている。一方、徹吉は、養父とは対照的に生真面目で学究肌、おしだしも良くなくはったりもきかず、病院経営には向かない性分で、苦労する。次女で美貌の聖子は、親の反対を押し切って結婚するが、生活の無理もたたって若くして没する。三女の桃子は、美人ではないが愛らしい少女として伸びのび育つ。しかし、親の決めた結婚相手となじめなかったこともあり、夫の死後家を飛び出し、実家から勘当される。

 基一郎には、欧州、米国と奇妙な名をもつ二人の息子がいるが、長男の欧州は大学で落第をくりかえし、ようやく精神科医にはなるが、父の病院にはかかわろうとしない。米国は、医者にならず、自称病気で病院の農園を手伝っている。徹吉の子どもは、俊一、周二、藍子の三人、周二が作者の分身である。

 特段に事件らしい事件があるわけではない。事件といえば、基一郎の晩年、11の尖塔で人目を惹く青山の病院が火災で全焼し、たまたま火災保険に不加入だったことから、大損害をこうむる。やむなく、世田谷区の梅が丘に広大な農地を手に入れ、新しい病院の建設に取り掛かる。基一郎は新病院建設を待たずに生涯を終えるが、新しい病院は順調に発展する。アジア・太平洋戦争の勃発で、米国、俊一らが徴兵され、米国は中国で、俊一は南太平洋のウェーキ島要塞で生死のあいだをさまよう。俊治の友人で藍子の恋人の城木達紀はラバウルで戦死する。この人たちをとおして、米軍に制空、制海権をにぎられた戦地の悲惨な実態が、また、まだ学生の周二や藍子をつうじて米軍の空爆で徹吉らの病院をふくめ全滅する東京の惨状が、実にリアルに語られる。

 敗戦をむかえ、戦災ですべてを失った徹吉が、疎開先の上ノ山で倒れる。奇跡的に生き伸びて帰還した俊一にたいして、病院の再建を龍子が迫る。ここでこの作品は終わる。

 

村田紗耶香『コンビニ人間』(文春文庫)

 多様性を認めない画一化され不寛容な世界では、個性をもった人間らしい人間は生きていけない。大量生産による規格化された商品の世界は、その典型であろう。そういう大量生産商品の流通を末端で担うのがコンビニである。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」と、そこの店員はすべてマニュアル化されたレールに乗って販売をする。私自身が体験した極端な例だが、80歳を過ぎた私が、コンビニでお酒を買うとレジを担当する若い二十歳くらいの店員が、備え付けの画面を指さして「確認のタッチをしてください」と要求する。そこには、「私は18歳以上です」との表示がある。私は猛烈に腹が立った。80年以上生きてきた人間をとらえて18歳上かどうかを問うとは、いくらなんでも失礼ではないか。もちろん店員に悪意はない、マニュアル通りの言動をしたにすぎない。コンビニ側からすれば、そんな老人が酒を買いに来るとは予想していなかった、ということになるのだろう。マニュアルが悪いのではなく、歳をとりすぎている方が悪いのである。画一化され、マニュアル化された社会の住みづらさは、かくのごとくである。

 第155回芥川賞を受賞したこの作品は、こうした社会に対する痛烈な批判を、逆説的に、すなわち画一化、マニュアル化のなかにしか住みやすさ、生きやすさを見出せない一人の女性を描くことによって世に問うているといってよい。主人公の古谷恵子は、生まれながらに情緒障害をもつ女性でまともな人間関係を築くことが苦手である。こどものころから、そうした自分をその場その場の人間関係に価値判断抜きに同化させることで、覆い隠し、しのいできた。成長してもまともな就職も恋愛もできないが、たまたま採用されたコンビニのアルバイトにはなじみ、18年間続け、ベテラン中のベテランになる。なぜなら、ここではマニュアル通りの言動をしてさえおれば、違和感をもたれずに、排除もされず、安心して過ごすことができる。すなわちコンビニ店員である限り、この社会であたりまえの女性として生きるよう強制されずに済むのである。すなわち、まともな就職もしないで、結婚もせず、子どももいないのはおかしい等々という、社会的圧力から自由でいられるのだ。

 ところが、この女性の前にやはり社会に同化できず、疎外感をもち、画一化された社会に恨みと憎しみを抱く白羽という男性があらわれる。この男性は、コンビニのアルバイトすら務まらず、シェアハウスからも追立を迫られ、恵子のところへ転がり込んでくる。形だけだが恵子がこの男と同居するようになると、コンビニ店の同僚も、妹も恵子に対する態度が一変する。彼女を自分たちと同じ一人の標準化された人間として扱うようになるのである。結婚して家庭をもって子どもを産み育てる普通の女性としてである。これは恵子には耐えがたい。

 画一化しマニュアル化したコンビニにしか安らぎを見出すことのできない奇妙な、それこそおかしな女性をとおして、作者は人間の多様性、個性を主張し、それらを押し殺す大量生産と大量流通を基礎にした、画一化、平均化が支配する今日の社会を痛烈に批判しているということができよう。だからこそ、奇妙奇天烈な女性を描きながら、そこにあたたかい人間味を通底させることができているといえよう。この逆説的発想にこそ、この作者の文学者としての優れた資質が示されているように思う。1979年生まれというまだまだ、若い作家であり、今後の活躍が期待される(2020・2)。