カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』(小野寺健訳、早川文庫、2001)

 作者の最初の長編小説で、1982年に書かれている。作者は1954年生まれだから、28歳の作品である。原題は、A pail view of hills。

 なんとも不思議な作品である。主人公の悦子は、ロンドン近郊の田舎で一人暮らしをしている。永く閉じこもりの末マンチェスターで一人暮らしを始めた長女の景子が突然自死するという事件のあとその心傷もいえないところへ、心配した次女のニキが見舞いに来て5日間滞在する。ニキは再婚したイギリス人との間にできた子で、ロンドンで一人暮らし、結婚など鼻にもかけず気ままな生活を送っている。そんな次女とのあれこれの会話をくりかえすうちに、悦子はかつて最初の夫の二郎と長崎のアパートに住んで景子を妊娠していたころをなつかしく思い出す。長崎に原爆が投下され、その生々しい傷跡がのこる戦後間もないころ、人々はそれまでの生活の激変、混乱とともにあらゆる価値観の転換に無我夢中に生きていた。悦子がとりわけ印象深く思い起こすのは、一つは、万里子という子どもを連れて近くに引っ越してきて二人きりで暮らす佐知子という女性との交流であり、もう一つは、次郎の父で、緒方さんと呼ぶ義父のことである。

 米軍の占領下の日本、佐知子にはアメリカ人の愛人がいて、これが大変な食わせもので、突然いなくなったり、他に愛人をつくったりして佐知子は翻弄されている。良いところの令嬢だったらしい佐知子は、この愛人とアメリアにわたり、万里子にアメリカの教育を受けさせ、女優でもなんでも自立した女性に育てるのが唯一の夢である。悦子は、大変な違和感を感じながらも佐知子とつきあい、あるとき万里子とともに長崎港近くにある稲佐山へハイキングに行った。それからしばらくして、佐知子は愛人のアメリカ人が手配してくれたと言って、神戸に引っ越していく。はたして夢がかなってアメリカに渡ったのかどうか、そのへんのことは定かでない。佐知子に違和感をもち続けた悦子自身、その後イギリス人と再婚してニキをもうけてイギリスで暮らしている。ある意味では佐知子と同じ道をあるいてきたのだ。

 もう一人の緒方は以前は高名な教育者であったようで、いまは引退して福岡に住んでいてときどき長崎の悦子夫婦の所へ遊びに来て滞在する。仕事で忙しい二郎にかわってもっぱら緒方の相手をするのは悦子である。緒方が滞在中のある日、二郎の同級生で良く面倒を見、教師への就職の世話までしてやった松田重夫という男が、たまたま手にした教育の専門誌に論文を書いていて、自分のことをきびしく批判している、いったいどういうことかと話題にもちだした。「教師たちが作っている雑誌さ。知らない雑誌でね。昔はなかったものだ。あれを読んだら、日本の教師はみんな共産主義者になったのかと思うだろうな」というのだ。二郎は、「たしかに日本では共産主義がさかんになっていますよ」と応じる。

緒方は次郎に松田へ手紙を書いて、ことの真意を確かめてほしいと頼むが、二郎は応じる気配がない。そこで緒方はある日、悦子といっしょに出かけたついでに、松田を訪ねることをおもいつく。久しぶりに会った松田は、緒方にいう。「公平に言えば、ご自分の行為の結果がわからなかったからといって、攻めるのは酷だと思うんです。あのころ将来を読めた人はほとんどいなかったのですし、また、読めた人は、そういう思想を口にしたために投獄されたんですから。しかし、今ではそういう人たちも自由になりました。そういう人たちがわれわれに新しい夜明けを教えてくれるんです」 これに対して緒方は、「新しい夜明け、何を言ってるんだ」と反問するが、同時に「若いものは自信があるな。わたしも、昔は同じようなものだったんだろう。自分の思想を確信していたんだ」と独白する。悦子は、「まったく見下げた話ですわ。お義父様、気になさらないほうがよいですよ」と慰める。ここには、教育をつうじて戦争に加担した緒方の戦後の価値観の転換にとまどう姿がしめされている。作者の姿勢でもあろう。これは、次の『浮き世の画家』の主題となる。(2017.11)

 

カズオ・イシグロ浮世の画家』(飛田茂雄訳、早川文庫、2006)

  

 2017年のノーベル文学賞受賞者の初期を代表する作品である。この作家の作品を読むのははじめてである。一言でいうと、なかなか感性のするどい目のつけどころの良い作家と感じた。

 時代と場所は、15年戦争で日本が敗北した直後の日本。敗戦まで日本精神を鼓舞する作風で名を成し、多くの弟子たちに取り囲まれ尊敬を集めていた日本画家の小野は、すでに引退した身だが、日本の敗戦で回りの空気が一変し、自分に対する世間の評価が冷たくなったのを実感している。そんなときに、順調にすすむと期待していた次女の紀子の縁談が相手側の申し出で破談になる。周りの空気や、長女の節子の口ぶりなどから、自分の戦前戦時の仕事に対する社会的評価の変化が、破談の原因ではないかと、小野はひそかに悩む。かつての自分の仕事が、時流に乗ったもので、国民を戦争に駆り立て破局に追い込む一因になったことへの反省はやぶさかではないが、同時に、間違っていたとはいえ、自分が生涯をかけて精魂をかたむけた画業にはそれなりの自負もあり誇りも感じている。そのことまで否定されたくないという気持ちもある。自分の弟子で時流に迎合するのを拒否し、治安維持法違反で特攻警察の残虐な拷問を受け、敗戦まで牢につながれていた黒田は、逆にいまは有名大学の教授として高い社会的評価をうけている。

 そんなときに、紀子に再び縁談がもちあがる。相手は、自分と同業で社会的な名声も高く、近くに住んでいて知己でもある人物の息子である。小野は、この縁談にともなう身元調査などから、自分のかつての仕事への社会的な批判が相手側に伝わり、重ねての破談になるのを恐れて、かつて近しかった人たちを訪ねて、それとなく慎重な対応を求めるなど根回しをしたりもする。そして、見合いの場で、自分の過去の業績にたいする反省めいた発言までして、周囲を驚かせる。長女の夫や周りの若者たちの戦争責任の追及や、批判に、否定はできないが、そんなに簡単に割り切れるものかという、白々しい気持ちもぬぐえない。戦中戦時をその時代の空気のなかで生き、戦争協力の一端を担ってきた世代が、戦後に直面し、逃れられなかった状況と心理を、アンビバレントなままに描きだしているところが、なかなかのリアリストだと感心させられる。

 作者は、日本人の両親のもとで5歳まで日本で育ち、父親の仕事の関係でイギリスにわたりイギリス国籍を得て永住するにいたった人である。1954年生まれであるから、戦後世代である。作品は英語で書かれ、日本語に翻訳されている。「浮世の画家」などというタイトルからして、日本文化や風俗を売り物にし、エキゾチズムで受け入れられてきたのかと勝手に推測していたが、決してそういう作品ではなく、戦争を挟んだ時代を生きた人間の核心的テーマに切り込んでいる。

 チェーホフドストエフスキーを愛読しているというから、さもありなんという感はある。解説を、小野正嗣が書いているが、「中心的主題があるとすれば、それは語り手の『記憶』の曖昧さ、より正確に言えば、その記憶のなかで知覚され、認識された『現実』の不確実性である」などと書いている。一作だけ読んだけでは断定はできないが、こんな抽象的なとらえ方では、イシグロ作品の核心はつかめないといわねばなるまい。(2017.11