カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』(入江真佐子訳、早川文庫、2006)

   上海の租界で両親とともに暮らしていたクリストファー・バンクスは、10歳のときに両親がいなくなり孤児になってしまう。イギリスの叔母に引き取られて 、ケンブリッジ大学を卒業して、仕事につこうとしている1923年から、クリストファーのこどものころへの回想をまじえて物語は書き出される。クリスとファーは、ロンドンの上流階級の社交界に出入りするなかで、不思議な女性、サラ・ヘミングに出会い次第に親しくなっていく。上海時代の日本人の友達、アキラのことが話題になる。

 話は、1931年、1937年、1957年と飛び、それぞれの時点でのクリストファーの状況と過去の思い出が語られる。クリストファーは、行方不明になった両親を探し出したいという願いが高じて探偵という職業につき、いろんな事件をあつかい実績を積むなかで次第に名をあげていく。1931年、クリストファーの父は、イギリスの貿易会社につとめている。母は、この会社が麻薬の取引で莫大な利益を上げていて、自分たちの生活が麻薬漬けにされる中国人の犠牲の上になりたっていることに、耐えがたい義憤を感じ、麻薬追放の運動に熱心にたずさわっている。クリストファーが叔父と呼んで尊敬するフィリップは、母のよき協力者である。

 中国には当時軍閥が跋扈し、国民党と共産党の対立、つづく国共合作と複雑な政情にある。クリストファーは、仲良しのアキラと子供らしい遊びに熱中しながら平和に楽しく過ごしていたのだが、ある日突然、父が消え、しばらくして母も誘拐されたとしか思えない謎の失踪をしてしまう。たった一人残されたクリストファーは、ある大佐に連れられてイギリスへ帰る。そして、成人したクリストファーは、自分と同じような目に遭って孤児になった少女、ジェニファーを引きとって親代わりになる。

 1937年、探偵として周囲から尊敬のまなざしを向けられるようになったクリストファーは、年来の意を決して上海にのりこむ。時はちょうど、日本軍が上海、南京に上陸して全面的な中国侵略にのりだすころである。上海租界の外では、日本軍と中国軍の激しい戦闘が繰り広げられている。日々その銃声が租界にも届く。そんななか、クリストファーは、イギリス領事官の人たちの協力もえながら、両親の行方を知る手がかりをつかもうと必死の努力をする。かつて自分たちが住んでいた住居も訪れてみる。

 ついに、両親が行方不明になった当時の上海警察の元警部の記憶をたよりに、両親が誘拐され閉じ込められていると考えられる場所を特定するに至る。クリストファーは、危険を冒してその地へ探索におもむく。そこは、まさに日本軍の攻撃とこれを迎え撃つ中国軍の激しい戦闘がおこなわれている地域で、犠牲になった住民や兵士の死体がごろごろころがっているようなところである。そのただなかで、クリストファーは、不当な嫌疑で中国人に捕らえられ負傷しているアキラに出会う。二人は思わぬ再開を喜ぶが、クリストファーが第三国人として日本軍に保護され、イギリス領事館に送り届けられる一方、アキラはスパイ容疑で日本軍に拘束される。領事館に戻ったクリストファーにやがて、両親の失踪の衝撃的な真実があきらかになる。

 歴史や時代の変化のなかでの個人の運命、役割といった作者特有の問題意識が、この作品にも貫かれている。クリストファーが子ども時代に置かれた境遇、イギリス植民地主義を象徴する上海租界、アヘン貿易、軍閥の跋扈、日本による中国侵略の拡大、そういった時代の波に翻弄される家族、とりわけ子どもという問題意識である。作者の他の作品と比べて、スケールの大きさと、サスペンスタッチの展開では右に出るものはないのではなかろうか。(2017・12) 

 

 カズオ・イシグロ夜想曲』(土屋正雄訳、早川文庫、2011) 

 原題は、NOCTURNES.―Five Storys 0f Music and Nightfall.。いずれも音楽にかかわる5編の作品からなる、作者はじめての短編集である。『浮世の画家』『日の名残り』『私をはなさないで』などの長編が、歴史の変化、時代と人間という太いテーマ性をもっているのに対して、この短編集には、すこしちがった面白さがある。中島京子さんが書いている巻末の解説によると、コメディセンス全開ということになる。

 最初の「老歌手」は、旧共産圏出身のギターリストが、ベネチアでかつて一世を風靡した有名歌手であったトニー・ガードナーに一夜かぎりで雇われ、ゴンドラのうえでトニーがホテルに滞在する妻のために歌うのを伴奏する、というはなし。時代から取り残されてしまったトニーは、今は有名でもなんでもなく、妻とも別れようとしている。そんな初老の音楽家の悲哀を描いている。それが、共産圏からやってきてトニーがまだ有名だったころしか知らない男の目を通じて語られるので、なんともユーモラスでもある。

 「降っても晴れても」は、音楽家として成功せずしがない語学教師をしている主人公が、ロンドンで成功している友人夫妻を尋ねる話。夫妻ともかつての同級生で、いわば幼馴染であるが、なにやら夫婦の間には嫌悪な空気がただよっている。その夫から、離れた妻の心をひきよせるために協力してほしいと頼まれる。だがその役とは、自分のダメぶりをさらけ出して、成功した夫を引き立たせてほしいということである。そこで、夫人のまえで自分のダメぶりを演出するのだが、どう展開するか。

 「モールパンヒルズ」は、作曲家のエドガーにゆかりのあるイギリスの名勝地・モーンパンヒルズで姉夫婦の経営するカフェに舞い戻った芽の出ない若者の音楽家が、ここを訪れたスイス人夫婦デュオに激励されるというストーリー。この夫婦もうまくいっていない。

婦人の感情の激しい変化もおかしみを誘う。

 「夜想曲」は、才能はあるが売れないサックス奏者が、マネージャーに売れないのは顔が悪いからだと、整形手術を勧められ、悪化している妻との関係回復への期待も込めて応ずる。術後で顔を包帯でぐるぐる巻いた彼は、ホテルで時間を持て余していると、隣の部屋にいてやはり整形手術した後で顔に包帯を巻くセレブリティから招待を受ける。そこで、「夜の散歩」をふくめてともに過ごした一夜の顛末は、捧腹絶倒という話。

 「チェリスト」は、いい教育を受けた野心家のチェリスト、ティーボールが、アドリア海に面したイタリアの海岸で、一人の女性チェリストに出会う。彼女は若者に才能を認め、レッスンを申し出る。若者は彼女の前で演奏し、彼女は批評するという形で、奇妙なレッスンが始まる。彼女は、ものすごくレベルの高い音楽家だが、チェロを弾こうとはしない。なぜか? ある日、彼女は若者に衝撃的な告白をする、という話。そして、彼女が音楽とは縁のない男と結婚するところで、話は終わる。

 いずれの作品も、音楽という一点でむすばれるとともに、夫婦の在り方、夫婦関係の危機をテーマにしている。また、才能と名声といった問題も、どの作品にも通底している。作者の関心のありかたをしめしているといえよう。長編にはみられない作者のもう一面をし