笠原十九司著『日中戦争全史 上下』(高文研、2017・7)

 著者は、都留文科大名誉教授。1944年生まれで、東京教育大東洋史学科大学院修士課程修了、軍事史藤原彰門下である。私が同大の大学院在学中の後輩ということになる。

 あとがきで著者自身が書いているが、戦後70余年になるのに日中戦争の全過程をきちんとあとづけた著作が、本書刊行まで存在しなかったとは驚くべきことである。私が本書を知って読んでみようと思い立ったのも、私自身これまで日中戦争に並々ならぬ関心をいだき、いろんな文献に目を通してきたにもかかわらず、この戦争の全体像をとおして学ぶ機会についに恵まれなかったからである。その意味で、本書の刊行は他にかえがたい重要な意義をもつとおもう。

 わけても学ぶべきことが多いのは、日中戦争において日本海軍が果たした役割についての究明である。これまでの常識では、海軍は日中戦争においては副次的な役割しか果たしていないとみなされてきた。それどころか、対米英戦争については初めから消極的で、できれば開戦を回避したいと考えていたとされてきた。ところが、本書によると、中国への侵略を北支から中支、南支にまで拡大し、全面戦争へと広げるうえで、決定的な役割をはたしたのが海軍である。上海で大山事件なる謀略事件まで引き起こして、戦線を上海、南京へ拡大した張本人は海軍であるという。海軍は、独自の軍備拡張をはかるために、積極的に南進論をとなえ、対米英決戦を主張して、戦局をリードしてきた。そして1941年に、対米英開戦に突入する際には、勝算もなく、内部には消極論が支配的だったにもかかわらず、御前会議などでそれを口にすることなく、首相一任という無責任な態度をとって、陸軍の暴走を放任したという。南進、対米英決戦を唱えて軍備拡張を推進してきたてまえ、開戦に反対とは口が裂けても言えなかったのだという。敗戦後も海軍はマッカーサーとの取引で、東条ら陸軍にすべての責任をおしつけて、みずからを免罪し、東京裁判でも一人の死刑もださなかった。戦後、元大佐の豊田隈雄がおこなった証言によれば、「陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分である」ということになる。

 個々の問題でも認識をふかめることができた。たとえば、南京大虐殺について、その背景に軍中央の指示をも無視した現地司令官らによる無謀な作戦強行があったこと、さらに、派遣された日本軍がいわゆる予備役や補充兵が主体の、士気を欠き規律のゆるんだ部隊から成り立っていた事実などは、事件がおこるべくして起こったことを証明している。また、海軍の役割とも重なるが、重慶爆撃の執拗さ、凄まじさは、認識を新たにした。この爆撃による航空機の訓練、ゼロ戦の開発などが、41年12月8日の真珠湾攻撃をはじめ太平洋で日本海軍を緒戦の勝利にみちびいていったことも、はじめて知ることができた。

 日中戦争中の日本軍による最大の作戦、大陸打通作戦をめぐっても、その全貌とこの作戦が果たした不毛の成果について認識を新たにさせられた。この作戦もふくめて、服部卓四郎ら参謀による独断と暴走、無責任も、あきれるばかりである。こういう連中の一方的な判断と無謀な作戦計画によって、何万という将兵が犠牲になり、それに倍する中国人民が虫けら同然に殺されていった事実に、戦慄をおぼえないわけにいかない。

 中国人民の抗日闘争についても、学び直したことが多い。とくに、中国国民党政府による抵抗、抗日戦での役割について、これまでの中国共産党サイドからの一面的な評価をただす必要がある。とくに戦争の後期には、連合国の一翼を担い米英などと同盟して、その援助も受けた空軍にみるように、日本との戦いで多くの戦果をあげている。そうした事実も改めて見直す必要がある。(2018・1)