大雪と初めてのスキー

 

 

  私が国民学校に入学した1945年の冬は歴史的な大雪であった。豪雪で有名な上越市の高田はすっぽり雪に埋もれた。駅の近くに「この下に高田あり」の標識が立っていたと聞いたのは、ずっと後になってからだ。私はこの冬、高田の近くに位置する新井というところにあった母親の実家で、当時新潟のわが家に下宿して新潟高校へ通っていた母の弟の入村達雄さんと一緒にすごした。この叔父は、東大の理学部をでて、晩年、航空宇宙研究所長を務めた人である。一つ上の兄が障害児で介護に手をとられたこともあって、私は冬休みなどに父の実家へあずけられることが多かったのだが、この冬は達雄叔父の世話になって母の実家に滞在した。

 新井の雪もものすごく、駅から母の家までの道路は積った雪と両側の家の屋根から降ろした雪とが重なって盛り上がり、周りの家屋より高くなって細い尾根のように連なっていた。その雪道は両側が切れ落ち、一つ間違えば何メートルもある下まで転落してしまいそうで、必死の思いで一歩一歩踏みしめながら歩いたのを覚えている。

 母の実家のすぐ近くを鉄道の線路がとおっており、豪雪だからラッセル車が通る。叔父に手伝ってもらって初めてスキーをはいたのだが、ちょうどそのときラッセル車が近づいてきた。見に行こうと叔父にせかされ、何とか歩こうとするのだが、慣れないスキーがすべってどうしても歩ことができない。焦れば焦るほどスキーがいうことをきかず、おもうように動けなくなる。ほとほと困惑したのを、いまも思い出す。

 しばらくして、どうやらスキーをはいて歩けるようになる。叔父に伴われて近くの小高い山にのぼり、そこから滑降をこころみたまでは良かったのだが、制動の技術を身に着けていないのだから、滑ることはできても、止まることができない。ずるずる滑って近くの小川にどぶんと転げ落ちてしまった。真冬というのに、全身ずぶぬれになって帰ったことも、懐かしい思い出の一つである。 春が近づき雪国にしては珍しく晴れたある日、叔父が雪をいっぱい山盛りにつめたグラスに砂糖をたっぷりかけて、食べてみよと勧めてくれた。天然のかき氷である。砂糖など口に入ることのなくなっていた当時、甘くて冷たくて、こんなうまいものはないと、天国に登るような感動を覚えた。これも、忘れがたい思い出である。

 この叔父は結婚して二人の子どもとともに神奈川県の藤沢住んでいた。後年、東京の大学に入学した私が一番に訪ねたのはこの叔父の家であった。私が目にした叔父の一家は、洗練された都会風の暮らしで、カトリックの信者であったこともあって、まるで別世界の人間のように思えた。当時、一般の人がようやく手にできるようになったスバル300という軽自動車を所持していて、これに同乗して京浜国道に出て生まれてはじめてのドライブを体験させてもらった。しかし、なにかなじめず、叔父を訪ねたのはこれが最初で最後であった。亡くなった時、母の代理もかねて葬儀には参列した。カトリック形式の厳かな儀式であった。