父の乗った船が米潜水艦に?

 私が新潟市国民学校に入学する少し前だったとおもうが、役所の出張で当時日本の植民地になっていた朝鮮へ赴ていた父から、〇日釜山発の船で帰国するという連絡があった。戦時の海外出張で身の安全が案じられる時代、母がやれやれとほっとしたであろうことはいうまでもない。ところが、予期しない事態が。父の乗った客船がアメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受けて撃沈させられ、乗客、船員は全員死亡したとみなされる、とのニュースが新聞で報じられた。これは私の記憶ではなく、後に母から繰り返し聞かされた話である。船は、私の記憶では白山丸という客船だった。

  母は当時まだ20歳代であった。障害児の長男を含めて3人の男の子に生まれたばかりの女児の4人の子どもをかかえて、突然未亡人になったのであるから、そのショックはいかばかりであったであろう。子どもだった私にくりかえし語って聞かせたことからも、その衝撃の大きさがうかがえる。まだ小学校に入る前の私はそのときのことを直接には覚えてはいない。しかし、新潟市の空に米軍のB29爆撃機が姿をあらわし、県庁の屋上に備えられた高射砲がこれに砲撃をくわえるといたことが日常になっていた当時、そうした事件があっても少しもおかしくなかったことは事実であり、こどもながらそうした報道を疑うことなく受け入れる状況にあったことは間違いない。

 突如として絶望の淵に落とされた母のもとに、父が仕事の都合で撃沈させられた船に乗遅れ、次の便で帰るとの知らせがあったのは、それからしばらくしてであった。その知らせどおり、父は何日かして無事に帰ってきた。おかげで私たちはすんでのところで母子家庭にならずにすんだ。偶然とはいえ、もし父が予定通りの便に乗船していたら、私自身を含め私たちの一家には、その後たどった道とはまったく違った、もっと悲惨で苦難の多い生活が待っていたであろう。何が人間の幸不幸を分けるかわからないとは、このことをいうのではなかろか?

 問題の白山丸は、この記事を書くために調べてみると、日本郵船日本海汽船という国策会社とに二つあり、前者はサイパン島と本土とを往復していて、1944年に米軍の魚雷で撃沈させられている。だからこれではないことはあきらかだ。後者は、朝鮮との間を往復していたようだ。しかし、撃沈されたのが何時だったかは定かでない。一説では、終戦直後に魚雷にあたって沈没したが、引き揚げられ、戦後も引き揚げ船として活躍したという。だから、父が乗る予定だった船が私の記憶どおり白山丸だったかどうか、確証はない。しかし、私の何十年にわたる記憶のなかでは、白山丸であったことに間違いはない。

 アジア・太平洋戦争という無謀な侵略戦争によって、日本はアジアの諸国に多大な損害を与えたばかりか、日本の国民にも三百万人の犠牲を強い筆舌に尽くせない苦しみを押し付けた。そのなかでも、多くの民間の客船が軍に徴用され、兵員や軍用資材、食料、衣服などの輸送にあたり、米軍の潜水艦などによる攻撃の犠牲になった事実は、忘れてはならない。南海の孤島や大陸の奥地に取り残されて飢え死にした将兵も数知れないが、沈没した輸送船に乗っていて海の藻屑となった将兵、民間人は何十万にも及ぶのである。大井篤著『海上護衛戦』によると、1941年の開戦以来、42年9月までの日本商船(500総トン以上)の喪失トン数は、月平均6万1000トンだったが、同年10月には16万5000トン(ガナルカナル島への大規模輸送開始)に、11月には15万9000トンに急増している。日本軍が太平洋、日本海制海権を完全に失っていた44年、45年には、船舶の被害がさらに急増したことはいうまでもない。民間のものをふくめて何千、何万という船が、米潜水艦の餌食にされたのである。ここで紹介した私の父の話も、そのなかでたまたま生じた不幸中の幸いの一つである。