国民学校入学式

 

    私が新潟市国民学校へ入学したのが、1945年の春だったことはすでに書いた。たしか関谷国民学校といった。その時の様子ははっきり覚えていない。宮城遥拝、教育勅語奉読などが行われたはずだが、記憶に残っていないのである。おぼえているのは、新潟は日本海に面していたこともあって、入学式がおこなわれた学校の校庭が砂地で、足のかかとを軸にして指を砂地に当ててぐるっと回すときれいな円形の模様ができる。面白いので興に乗って、式などそっちのけに、ぐるぐるやっていたのだろう。一人の女の先生が私のそばに来て耳打ちをした。「あだちさん、お馬じゃないのだから、そんなに足を動かすものじゃありません」との忠告である。これだけはっきり記憶していて、あとはまたく忘れてしまった。教育勅語についての思いでといえば、少し後になってからだが、「朕思ふに我が皇祖皇祖」を言い換えて「朕思わず屁をたれて汝臣民臭かろう。少しの間がまんせよ」ともじった戯言をどこからともなく聞き覚えて、得意げに口にしていたことである。おそらく天皇人間宣言(の946年1月1日)後のことではなかったかとおもう。

 入学式の後、教室に入ると、突然、読み書きの簡単なテストがおこなわれた。これは覚えている。六年生の生徒が数十人、どっと教室に入ってきて、一年生一人に一人の六年生がいわばマンツーマンで付き添い、簡単な読み書きや計算問題を出して答えさせるのである。私は、幼稚園にも通い、初歩的な書きとりや計算はマスターしていたから、ほぼすべての質問に正解で答えたのであろう。私に付き添った六年生は、「すげえや、こいつできるぞ!」と感嘆の声をあげたのを、不思議なことにいまだに覚えている。一年生にとって、六年生といえばまるで大人である。巨大な男がそばへ来て何やらいろいろ質問したのが、よほど強烈な印象をあたえたのだとおもう。

 新潟市で学校に通ったのは半月にも満たない短い期間であった。印象深かったのは、集団登校、集団下校である。特にB29が飛来して空襲警報が発令されたときの下校は、みな手をつないで道路わきの塀に背を密着させて、そろりそろりと歩いて帰った。そして、家に着くや、近くの大きなお屋敷の庭に掘られた防空壕に逃げ込んだ。当時、たしか自宅の庭にも防空壕はあったのだが、自宅から数軒おいたところに立派な塀でかこった大きな屋敷があって、ふだんは中をのぞくこともできないのだが、こういう時は隣近所に解放されていたのである。

 新潟市のわが家は、県庁からほど近く一筋海岸へ寄った、学校町というところにあった。おそらく県庁の職員のための官舎だったのだろう、当時としてはモダンな半ば洋風の家であった。家のまえの道路を横断すると、松林がひろがり、その先に広い砂浜があって海岸につらなっていた。この松林で近所の子供たちと兵隊ごっこをしたり、夏には海岸で遊んだり海にはいったりした。いまはすっかり消えてしまったが、広い砂丘では、グライダーの訓練がおこなわれていたのが、遠い記憶にのこっている。