デパートの食堂で雑炊--新潟の思い出

 新潟市での暮らしの思い出は、戦争も末期のころのものばかりである。一番の繁華街である古町に大和デパートがあって、その屋上に子ども向けの遊び場があった。そこに、脚でまたがって乗り一銭銅貨を所定の穴に入れると馬が上下に動く遊具があって、これによく乗った。「一銭ちょうだい、御馬がハイドー」というのが、私たちの合言葉となっていた。これは、私が通った幼稚園が仏教寺院の経営によるもので、毎朝、「一心招来万徳円満、釈迦如来----」と暗唱させられていたお経の言葉(真言宗のお経「舎利礼文」)をもじったものである。いま問題の森友学園が児童に教育勅語を暗唱させていたようなものだが、こちらが天皇のために命を捧げよという内容であるのにたいして、お釈迦様に祈れば幸せを招けるというのだから、罪はない。もっとも、当時その意味などまったく解らなかったのだが。

 1944、5年ころになると、デパートの大食堂にもほとんどなにもなくなっていた。あるとき、雑炊がこのレストランのメニューに載っているというので、家族でわざわざ出かけた。そこで口にできたのは、だし汁のなかにご飯粒がパラパラと浮いているといったもので、とても雑炊といえた代物ではなかった。期待して行っただけに、がっかりさせられたのを覚えている。

 そんな時代だから、食料の買い出しは母の大事な仕事とってなっていた。花嫁衣装に持参したのであろう衣類などが、物々交換で農家から食料を提供してもらう代償として次々に消えていった。私の記憶にあるのは、市の郊外に盲学校があって、その一帯に農地と農家が広がり、そこへ乳母車に弟を乗せて私は歩いて母の買い出しに同行したことである。農家から譲ってもらった食料を、乳母車の底に隠し、そのうえに弟を乗せて帰路に着くのである。真夏炎天の下を、トボトボと長い時間を歩かされたのを思い出す。

 “欲しがりません。勝つまでは”が、当時の国民に押し付けられたスローガンであった。このスローガンのもとに、食糧難も飢えも耐え偲ぶのが銃後の国民の義務とされた。そんな風潮は私の通った幼稚園にも及んだ。ある日のこと、先生から週に一回は“日の丸弁当”を持参するよう全児童に指示があった。“日の丸弁当”とは、ご飯の真ん中に梅干しを一つだけ置いた弁当の事である。母が気の毒に思ったのだろう。一切れの卵焼きをご飯の隅に添えてくれた。ところが私はこれに猛然と抗議したのである。“日の丸弁当”には梅干し以外は入れてはならないというのがその理由である。「先生がそう言ったもん」というのが私の言いである。こうして、幼児の心にまで、軍国主義の思想、精神が刷り込まれていったのである。当時、家にはラジオがあって、ニュースの時間になるとアナウンサーの厳かな声で「大本営発表」があった。すでに敗戦必至の状況だったにもかかわらず、赫かくたる戦果が誇大に麗々しく報じられた。真相を何一つ知されない母が、戦勝を率直に喜んで、和服にかっぽう着のままラジオの前で小躍りしていた姿を、いまもまざまざと思い出す。

 軍事教練であろう。家の前の通りを完全軍装をした中学生が隊列をなして駈けて行くのをよく見かけた。威勢の良い掛け声をかけながらの隊列は勇壮なのだが、私が目をむけたのはその姿ではない。隊列から離れ、何十メートルか遅れて一人で走る体格のやや劣る生徒がかならず何人かいた。なかには、脚に巻いたゲートルがほぐれてひらひらと流しながら必死に走っていく生徒もいる。それらの生徒を気の毒だなあと眺めていたのを、なぜか思い出すのである。