分教場の1年生

 国民学校へ入学してすぐ父の実家のあった上越市の米山中腹に位置する山村に疎開したことはすでに記した。転校した学校は黒川国民学校下牧分校であった。1、2年生、3、4年生、5、6年生がそれぞれ一つの教室で学ぶ複式学級である。授業は、1時間の半分を1年生、後半分を2年生と分けておこなう。したがって授業時間の半分は自習ということになるが、じっさいにはポカンとして過ごすことが多かった。後に、“私は実は3年しか小学校で学んでいない”とよく言ったが、これは単なる誇張ではなかった。昔、久保栄原作で今井正監督による「二十四の瞳」という映画があった。小豆島を舞台に12人の児童と担任の女教師による戦争をはさんでの交流の物語であった。私の場合は、同級生11人、「二十二の瞳」」ということになる。

 最初に習った国語の教科書は、「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で始まり、「ヒノマルノハタ バンザイ バンザイ」「ヘイタイサン ススメ ススメ チテチテタ」といった文字通り軍国主義むき出しの内容であった。1年生にはいったばかりの児童にこんなことをたたき込もうというのだから、その先はおして知るべしである。まもなく敗戦とともに、教科書の墨塗がおこなわれたことは、すでに書いた。しかし、幼い子どもだった私には、なぜそのようなことをおこなったのか、まったく理解せず、なんの疑問もいだかなかった。ただ先生にいわれるままに従っただけである。

 当時の僻地の山村では、子どもは大事な労働力であった。したがって、幼い子どもでも農繁期となると、農作業を手伝う。そのために学校を休むのは当然であった。したがって、春秋の農繁期には学校は一週間くらい休みになった。その分夏休みを短縮していたのだと思う。そのうえ、進学しようとか、学問で身をたてようなどという子どもは皆無だったから、勉強意欲など湧くはずがなかった。しかも、学校では授業以外に、山菜採りにくりだして生徒全員でわらびやぜんまいを採り、これを売って教材費にあてるなど、山の学校ならではの種々の行事があった。夏休みの宿題には、薬草であるドクダミゲンノショウコの採集、イナゴトリなどの課題が出されもした。授業時間が実質的には普通の学校の半分であるうえ、こうしたことに多くの時間を割くのだから、学力が通常の学校よりいちじるしく劣ったのは事の成りゆきであった。その代わり、のんびりした、楽しい日も多い学校生活であった。

 いまもとりわけ懐かしく思い出すのは、米山(海抜993メートル)山腹でのトウキ(当帰)採りである。トウキというのは、6~8月ごろに、米山の8合目ほどの所にある危険な岩場に生える植物で、一見独活に似ているが、セロリに似た強烈な臭いを発し、これがトイレなどの防臭剤として利用される。学校じゅうでこれを採集して、売りさばき、教材費に当てようというのである。1年生でなくもう少し上級生になってからだとおもうが、米山の岩場にのぼり、危険をおかしてトウキを採集した。そのたびに怖い思いをしたことを思い出す。当時の教師たちは子どもたちによくぞあんなことをさせたものだと、ふりかえってぞっとさせられる。