疎開児童

  疎開といっても、私の場合は父の実家へ引っ越したのだから疎開したという実感はなかった。しかし、通いだした国民学校には疎開児童がたくさんいた。疎開には、縁故疎開と集団疎開があり、縁故疎開とは文字通り縁故をたよっての移住であり、集団疎開というのは、学校、学級全体でおこなう疎開を言った。いずれもアメリカ軍による空襲が激しくなって、危険を避けるための都会からの脱出、避難である。1944年8月ころからから敗戦まで、約40万人以上の学童が疎開したという。なかには、沖縄から疎開児童を乗せた対馬丸が米軍の潜水艦による魚雷攻撃で撃沈させられるという不幸な事件もあった。

    私たちが住む父の実家のすぐ隣に、中稲葉という屋号の農家があり、その庭先に薪小屋ででもあったろうか、藁ぶきの掘立小屋があって、そこに縁故疎開の一家が暮らしていた。ご主人は戦死、未亡人となった夫人が中学生の長男を筆頭とする5人の男の子といっしょに住んでいた。むしろをひいただけの一室に、どうやって暮らしていたのか不思議だが、とにかく住んでいたのだ。私と同年代の子どもがいたので、よく遊びに行った。兄弟の中に寝小便をする子がいて、いつも部屋中が小便臭かったのを記憶する。それでもしょっちゅう出入りしていたのだから、仲が良かったのである。

   戦死したご主人は軍人だったから、遺族年金の収入はあったにしろ、どうやって生活費をまかなっていたのか、後から考えると不思議でさえある。どの子も着たきりスズメだったが、悲惨なのは雪が積もる冬である。登校するのに地元の子どもは藁で編んだ長靴をはくのだが、藁沓の作り方を知らない都会人だから、履物がない。藁で作ったスリッパのような履物を履いていたが、雪が直接足に触れて凍るように冷たくなる。耐えられずに泣きながら歩いていたのを記憶する。私は、幸いなことに母の弟が子どものころに履いていたというゴムの長靴を払い下げてもらい、これを履いて登校した。ゴム長を履いていたのは、クラスで私一人だったと思う。

 疎開児童をめぐって悲惨だったのは、どこでもいじめがあったことである。とくに当時の山村は閉鎖的なうえ集落ごとに非常に排他的で、地元の子どもでも集落同士でいがみあい、しょっちゅう喧嘩をしていた。まして、疎開児童は、言葉が違い、身なりが違う。そのうえ、いつも飢えていてがまんできずに、農家の畑にある芋やキュウリ、スイカなどについ手をだしてしまう。だから、地元の子どもの恨みを買うこともしばしばあり、どうしてもいじめの対象になる。

   私は、地主でもある父の家への疎開だから、いじめの対象にはならなかったが、隣の小屋住まいの子どもたちはよくいじめられていた。私と同年のМ君がいじめにあったあと、地面に生える草をむしり取りながら悔し泣きをしていたのを覚えている。なぜか、私はいじめの現場にいたことがなく、したがっていじめに加わりもしなかったが、止めにはいったこともなかった。

 戦争が終わると、私たちはそのまま住みついていたが、疎開児童はつぎつぎと都会へ帰っていった。隣の母子家庭もしばらくして東京へ戻っていった。ずっと後になって、5人の子どもたちがそれぞれ立派に成人し、夫人はどこかの私立大学の用務員をしていると、風の便りに聞いたことがある。