薄幸だった兄のこと

 一つ年上の兄は、3歳のころ赤痢を患って高熱が続き脳炎をおこして生死の間をさ迷った。両親はどんな障害が残っても良いから助けてほしいと新潟大学の脳外科の医師にすがるように必死で懇願したという。兄は助かったが、発達障害で知能は三歳児のままにとどまり、左手の麻痺に加えて、てんかんの発作という後遺症がのこった。「ぽっぽっぽ、はとぽっぽ、まめがほしいか、そらやるぞ、みんなでなかよくたべにこい」という童謡が好きで、いつもこの歌ばかり口ずさんでいた。

 てんかんの発作は、日に何回かおこり、突然ばたっと倒れて全身を強直させて恐ろしいうめき声をあげてがたがたと手足を震わせる。発作は数分間続き、収まるとしばらくぐったりとしているが、その後は何もなかったように元気になる。しかし、いつ発作がおこるかわからない。道路を歩いているときでも、公園で遊んでいるときでも、どこででも発作が起こる。冬、こたつに脚を入れていて発作を起こし、炭火に脚を突っ込んで大やけどをしたこともある。だから、生傷がたえなかった。

 当時、アレビアチンというてんかんの発作を抑える特効薬があった(いまも使用されている)。これを飲んでいる間はてんかんの発作がおこらなかった。しかし、戦時下の物資不足のなか、この薬を手に入れるのが並大抵の苦労ではなかった。父は、仕事で行く先々で薬局を訪ね歩き、この薬の入手に労をいとわなかったという。からだは大きくなるが、知的障害はそのまま、てんかん発作もちだから、手のかかることこのうえもない。それどころか、障害者の人権など見向きもされなかった当時、兄は周囲の嘲笑と蔑みの格好の対象でしかなかった。家が地主だから、表立って笑ったりさげすんだりする者はいなかったが、一つ裏へ回れば、物笑いの種にされていた。子ども心にそのことを敏感に察知していた私は、自分たちが周囲から笑いものにされているように受けとめ、次第に人前に出るのが嫌になり、対人恐怖症のような心境になっていった。いまも対人関係、とくに初対面の人に緊張する私の性格は、子どものころのこのような家庭環境と不可分のように思っている。

 私が山の学校に転入学したさい、両親はこの兄をなんとか学校に通わせたいと考えた。頼み込んで私と同学年ということで入学させ、私と机を並べることになった。しかし、教師の話を理解できるわけでなく、じっと座っておれるはずもなかった。すぐ立ち上がって勝手に動き回るので、学校では手に負えないということで、何日かで通学は断念せざるを得なかった。

 兄は16歳まで生きたが、最期はてんかんの発作がとまらなくなり、全身を強直させ、獣のようなうめき声を発し続けたまま、息を引き取った。しばらくして、無神論者だったはずの父が、キリスト教のバイブルを買ってきて読んでいるのを目にすることがあった。両親は、その後、私たちの前ではこの兄のことを一度も語ることがなかった。