父と「満蒙開拓団」

 敗戦直後、父が県庁を訪ねてきた一人の身寄りのない元満蒙開拓青少年義勇兵を家に連れ帰ったことは前に記した。行きがかりとはいえ父がなぜそうしたのか、それには深いわけがあった。

 父が勤めていた県庁での職務は拓務課といった。農民のなかから「満州」への移民を募り、応募した貧しい農民を「満州」に送り出す仕事である。1931年の「満州事変」によって中国東北部へ侵略した日本は翌32年、日本の傀儡国家「満州国」でっちあげた。そして、日本の農民を大量に送り込んで、この傀儡国家にたいする日本の支配の安定化をはかろうとしたのである。「満蒙開拓」とはいうが未開地を開拓するのではなく、現に耕している中国人を事実上強制的に追い出し、そこに日本の農民を送り込んだのである。当然、中国農民の激しい抵抗にあい、これにたいする残虐な武力鎮圧も不可欠となった。この「満蒙開拓」には、長野や新潟などの貧農を中心に約30万の農民が送り込まれた。そして、1945年8月9日、ソ連軍が「満州」に侵攻してくると、日本軍は日本人移民を置き去りにしてさっさと撤退し、残された日本人(成人男子は軍に招集されて、老人と女性、子どもばかり)が、想像を絶する苦難の逃避行を余儀なくされ、ソ連軍の攻撃で死傷したり、集団自決するなど多くの犠牲者をだした。県庁をたずねてきた青年もその中の一人だったのである。だからこそ、訪ねてきた身寄りのない青年を父は放置できなかったのであろう。ずっと後になってからの私の推測だが、的を外してはいないと思う。

 なぜ父が「満蒙開拓」の仕事に携わるようになったのか? これにも歴史的な背景がある。1907年に生まれた父が、新潟県下越にあった加茂農林学校から宇都宮高等農林学校(現在の宇都宮大学農学部)へ進み(1924年)、そこを卒業したのが1927年3月である。当時は、昭和恐慌から世界恐慌へという危機的な経済状況を背景に、左翼運動が大きく広がり、翌3月15日には日本共産党に対する大弾圧、翌29年4月16日にも追い打ちをかけた弾圧が加えられるなど、治安維持法特高警察による非道な人権抑圧が本格的に猛威を振るいだした時期である。そんななかで、若い知識人として父が極貧にあえぐ農民と農村、特に山村の抱える問題解決に心を砕き、左翼運動に共感をいだいていったであろうことは間違いない。

 私が大学院生で東京の練馬区大泉町に下宿したいた時、まったく偶然なのだがこんな体験をしたことがある。当時、自律神経の失調で体調を崩して苦しんでいた私は、近所で営業していたある指圧師の所へ通ったことがある。驚いたことに、親しくなったその指圧師が、戦前、宇都宮高等農林で学生寮の寮監をしていたことがあり、父を知っているというのである。そして次のようなことを語ってくれた。「当時左翼運動がさかんでした。君のお父さんは、実際にソ連へ行ってみなければ本当のことは分からないと言ってね、それからしばらくして僕らの所から姿を消してしまったのだよ」と。すなわち、左翼運動に共感しながら、思想的に動揺していたということであろう、私のその時の感想である。

 その後父は1928年に中国に渡り、吉林省にあった光明会経営の中学校の教師をへて、満蒙開拓の事業に参加、33年に帰国して栃木県長野原農学寮主事などをへて、1939年、農林技師として新潟県庁に赴任、42年より拓務課勤務となる。この間に、左翼の同調者から農本主義に転じ、「満州国」への移民に深刻化する日本の農村問題解決の道を見出す立場になっていたことは明らかである。当時、赤松克麿氏などにみるように、左翼マルクス主義から農本主義に転じるのは一つの時流であった。左翼運動が過酷な弾圧で挫折を余儀なくされるなかで、父の思想遍歴もおそらくその一例であったのではないかと、いまわたしは推測している。

 やはり大学院に在学中のことだが、当時新潟市に住んでいた両親のもとの帰省した折に、たまたま父が県庁在任中の同僚で親しかったという、たしか野呂さんという方にお会いする機会があった。野呂さんは私にこんな話をされた。「君のお父さんが新潟市を引き揚げるとき、やばいから預かってくれといって、本を託されて、今も保管しているのだ。そのなかには井上日照の著作もあるよ」と。井上日照は、陸軍青年将校によるクーデターの思想的バックボーになった右翼思想家である。「満蒙開拓」による日本の農民問題解決という構想は、極右軍国主義思想と不可分であった。父がどこまでそうした思想に同調していたのかはわからないが、左翼から中国侵略を推進した農本主義、右翼思想に転じていたことは事実であろう。

 後に私が60年安保闘争を通じて左翼に身を投じた際に、父は「若い時はそういうことを考えるものだ。しかし、現実はそんなに甘くないのだ」という言い方で、わたしを批判、説得しようとした。いま思えば、そこには父自らの思想遍歴が投影されていたのではなかったろうか? 父は、保守系の陣営の一員として地方自治体の首長を永年務めた。そうした立場では異例なことだが、晩年、日中友好協会の活動に熱心に参加していた。生前私たちの前で、戦前、戦中のことを語ることはなかったが、そんなところにみずからの過去への反省がこめられていたのかな、と推測する次第である。