外交官夫人が夢だった母

 父についてしたためたので母のことも書いておかないと公平さを欠くであろう。母は、1914年(大正2年)生まれだから、私が生まれたときはまだ24歳だったことになる。いまは上越市に編入されたが高田に近い新井という町が母の出身地で、家は代々穀物問屋を営んでいた。男2人、女6人の兄弟姉妹の次女であった。

 新井の高等女学校生徒だったころ、和服に袴を履いて一本杖でスキーをしている写真が残っていて珍しそうに眺めた記憶がある。生まれながら手先が器用で利発な子どもだったようで、女学校の担任の教師が上の学校への進学を熱心にすすめ、家に日参して両親の説得にあたってくれたという。そのおかげで、姉妹のなかではただ一人、東京の専門学校(今の大学)への進学を許された(地元の大学へ進んだ姉妹はいるのだが)。当時、九段にあった和洋女子専門学校(いまの和洋女子大)である。専攻は和裁。叔父にあたる人が東京・駒込に住んでいて、そこに下宿しながら通った。

 叔父の家には従弟にあたる青年がいて、戦艦・瑞鶴の軍医をしていた。日本が「満州事変」をへて日中戦争へと突き進む時代であったが、そのころはまだ生活物資もそれなりに豊かで、庶民の暮らしは数年後に較べれば落ち着いていた時代である。海軍の軍医の従弟は、航海で外国を訪れる機会も多かったであろうし、一般には手に入らない高級品を持ち帰ることもままあったであろう。また、外国のことが話題になることも少なくなかったであろう。周囲のそんな環境のなかで何不自由のない学生時代を過ごした母は、いつしか外交官と結婚して海外で生活する夢を見るようになったという。

 しかし、現実はきびしかった。世界恐慌から間もなく、“大学は出たけれど”が流行語になった時代である。学校を卒業した母がやっと就職できたのは、越後の山の中、吉川村というところにあった吉川中学校(いまの高校)の家庭科教師であった。もちろん下宿をしての単身赴任である。ずっと後になるが、そこで教えた生徒たちがわが家を訪ねてきて、母と懐かしそうに言葉を交わしているのを、子どものころときたま見かけることがあった。

 運が悪かったのか、たまたま吉川村に私の父の妹が嫁いでいた。倉茂さんといったが、この夫妻が吉川高校に赴任してきた若い教師を見染て、私の父のお嫁さんにと考えたようである。当時父は宇都宮にいたのだが、倉茂さんが仲人となって話はトントンすすみ、1936年に母は父のもとに嫁いできた。結婚式は、山奥の父の実家で三日三晩通しておこなわれた。父の住む集落まで母を乗せてハイヤーが登ったのは、これが初めてだったという。石だらけの険しい山道を同行した母の父は、後々“とんだ山猿に娘をやってしまった”と後悔していたという。

 新婚生活は宇都宮で始まり、ここで私と兄が生まれ、間もなく父が新潟県庁勤めにかわって、新潟市内に住むこととなる。そこで弟と上の妹が生まれる。そして敗戦をはさんで父の実家のある山深い村に移り住むこととなる。地主だった義父からは「秋になれば蔵は米でいっぱいになる。だから働く必要はない」と言われたと、後に私たちに語っていた。しかし、戦後、それどころではなくなる。農地解放で田畑は人手に渡り、父が県庁をやめて実家に戻ったこともあって、障害児の兄をふくむ5人の子どもかかえて、わずかに残された田畑に入って慣れない農作業に精を出さざるを得なくなったのである。47年に父が村長に担ぎ上げられて再び公務につくことになったこともあって、わが家の農作業は母の一手にゆだねられる。当時、栄養不良もあって痩せこけていた母が、天秤棒を肩に肥桶をかついで、ひょろひょろと畑まで歩いていく姿が、いまも私の目に浮かぶ。小学生のころ、熱い真夏の太陽が照りつけるなか、母の畑仕事を手伝う合間にもぎたてのスイカや瓜を口にしたことも覚えている。

 当時、裕福な商家に嫁いだ母の姉妹が高田市内に住んでいて、その子どもたちが半ズボンに白い靴下、ズックの運動靴など都会風の立派な身なりをして、昆虫採集の虫網やドウランを持参して、夏休みにわが家へ遊びに来た。はだしで、泥まみれのみすぼらしい服を着た私たちにとって、まぶしいような存在であった。畑仕事の合間に、母がよく“都会の子どもなどに負けるな!”と私に向かって叱咤激励の言葉を口にしたのを、いまなお記憶してる。