蚊帳の中の蛍

 初夏の夜、谷あいの棚田のすべての田んぼに、無数の蛍が舞った。それはそれは見事なものであった。まだ農薬を使用しない時代だった。田植えが終わって、苗が2、30センチくらいに伸びたころ、蛍は稲の葉にとまったり、夜空を飛びまわったりして、見渡す限りの空間がその大群で覆われた。

 子供たちにとって、蛍狩りは初夏の楽しみのひとつであった。簡単に手でとらえることができ、小さな箱に何十匹も入れて家にもちかえった。当時はどこの家でも、蚊をさけるために寝室に蚊帳(かや)を張っていた。そのなかに捉えてきた蛍を放つのである。電灯を消した暗闇のなかで、飛び交う蛍の光だけが点滅するのを寝ながら眺める。幽玄とはこのときの光景をいうのではないかと、いまでも懐かしく思い出す。

 蛍にかかわって怖い記憶もある。蛍狩りに出かけ、田の畔で草むらの中で光を放っているので蛍と思って手を出して、よく見ると、蛇のヤマカカシだったのだ。目が光っていたのである。人に危害を加えるような蛇ではないのだが、恐怖で金縛りになったのを覚えている。ヤマカカシは、シマヘビとともにこのあたりではよく見かける蛇である。

 その後、農薬を使用するようになり、この一帯で蛍はほとんど姿を見せなくなった。そういえば、ドジョウもタニシもいなくなった。当然、子どもたちが蛍狩りをすることもできなくなった。私たちの子どものころの思い出だけが、いまも生き続けている。