一病息災

 振り返ってみると、私は元気で活動的な子どもだったにもかかわらず、よく病気をした。兄が脳炎になったと同じころ、やはり疫痢を患った。ジフテリアにも罹った。そんな大病でなくても、しょっちゅう風邪を引いたり、お腹をこわしたりした。戦時中で、栄養状態が良くなかったことも背景にあったであろう。新潟に住んでいたころは、近所のお医者さんが家までよく往診に来てくれた。白い服を着て検診器を胸や腹に当てて診察してくれたのを覚えている。ある日の往診のさい、どういう経緯があったのか覚えていないが、私が楽しみに保管していた家庭用の花火の軸が折れてしまって泣き叫んでいたのだろう。その先生がカバンから絆創膏をとりだして、花火の軸に巻きつけて修理してくれた。そのことをなぜかいまも思い出す。

 風邪で熱を出して寝込んでいると、部屋の天井板の木目がいろんな形に見えてくる。恐ろしい化け物だったり、怖い男だったりする。その形に怯えて一人寝ているのが耐えられなくなったこともしばしばであった。熱のせいであろう。愉快で楽しい姿に見えることはないのである。風邪で寝込んだときに、うれしいこともあった。母が葛湯をつくって飲ませてくれるのである。どこから手に入れたのか、砂糖の入ったねっとりとした熱い葛湯は、甘みさが舌にしみた。こんなおいしいもがこの世にあったのか、と思ったものである。

 小学校入学直後に疎開した山の村で、最初に直面したのは蚊(ブヨ)による被害である。半ズボンをはいていた私は、ブヨに襲われて脚のすねから腿にかけて腫れあがり歩ける状態ではなくなってしまった。皮膚が弱く敏感な体質であったため、その後今日に至るまでいろんな機会に皮膚のトラブルに悩まされることになるのだが、当時はそんなことを知るはずもなかった。ただ、村の子どもたちは何でもないのになぜ自分だけこんな目にあうのかと、不思議でならなかった。歩けないから、しばらく体格の良い6年生に負ぶってもらって通学したことを記憶する。

 次に悩まされたのは、漆かぶれである。山には自生する漆の樹がいたるところにある。皮膚の敏感な私は、漆の樹の下を歩いただけでかぶれてしまうのである。皮膚が赤くはれてかゆくてかゆくて耐えられなくなる。何年かを経て次第に馴れてきて、そうたびたびかぶれることはなくなったが、それでも漆に直接触ったりすると必ずかぶれ、皮膚の炎症をおこした。

 健康という点で、わたしと対照的だったのは二つ歳下の弟である。生来おとなしく内気で、外で遊ぶこともめったにないような子どもだったが、意外に丈夫で風邪一つひかず医者にかかったことがなかった。私の方は、野山を走り回ったり村の子どもたちとの戸外の遊びに熱中したりしていたのだが、よく医者の世話になった。そのせいもあって、いまにいたるも健康には気を使い、定期的な健康診断も欠かさず、病院通いは生活の一部になっている。そのおかげで、80歳になる現在まで何とか生き延びてきた。ところが、病気一つしなかった弟は、67歳のとき、突如、前立腺ガンの末期症状が発見されて、あっという間に他界してしまった。人間の運命とは誠に不思議なものである。