はじめてのテレビジョン

 1949年、5年生の修学旅行先は、長野市だった。新潟県に近い柏原の小林一茶記念館を訪ねた後、15年ぶりの御開帳を迎えた善光寺にお詣りをし、戦後初めて開かれた長野平和博覧会を見学した。もの心ついてから、県外に出るのは初めてで、しかも長野市という当時の私たちにとっては大都市を訪れたのだから、心踊る大冒険であった。大人になってから調べてみると、この博覧会はアメリカを紹介する特設館が最大の目玉で、自動車や電気冷蔵庫、電気洗濯機など当時の日本人にとっては夢のような豪華絢爛たる最新の文明のシンボルが展示されていた。

 それらについての記憶はまったくないのだが、私にとって最大の驚きは、この博覧会で生まれて初めてテレビジョンなるものを目にしたことである。壁をへだてた別の部屋で踊り子が演技をしている姿が、まったく見えない別室に据えられた箱型をしたケースのガラスの画面にそっくりそのまま映し出されるのである。当時でも電話はあったから、音声が空間を超えて伝達されることは知っていたのだが、壁や空間をへだてて映像が移動してくるということは、私にとってはとても信じがたいことであった。しかも、それが動く映像であるから、なおさらである。ビックリ仰天、“こんなことがほんとにありうるのか”というのが、率直な感想だった。このときの衝撃の大きさは、80歳になるいまにいたまで鮮烈な印象を私の心に残しつづけている。

 博覧会のもう一つの目玉だった「特設テレビジョン館」での体験である。後で調べてみると、展示されていたのは、525走査線による東芝の試作品であった。それから10年後にはテレビが一般の家庭にまで普及してくるのだが、当時そんなことは夢にも考えられなかった。

 ついでに記すと、翌年6年生の修学旅行先は新潟市であった。私にとっては、6年ぶりの懐かしい故郷への旅である。信越線の新潟駅に着くと、川幅の広い信濃川にかかる萬代橋を渡る。この橋ははっきり私の記憶にのこっていた。市最大の繁華街である古町の大通りにある大和デパートも、母に連れられて良く行ったところだ。宿は、万代橋の近くにある修学旅行専門の旅館だったと記憶する。

 私にはなじみの新潟だが、いっしょに行動する同級生にとっては、初めて見る大都会で驚きの連続だった。なにしろ、汽車に乗るのが生まれて初めてという子もいたのだから無理もない。なかでも子どもたちにとって一番の驚きは、デパートのエレベーターだった。大きな箱に入ると、なにもしないのに屋上まで連れて行ってくれる。こんな便利なものはないと、子どもたちはくりかえしくり返しエレベータに乗って飽きなかった。山のなかの複式授業の分教場の子どもたちであるから、修学旅行は5、6年生合同だったのか、それともたった11人の同学年だけだったのか、その辺の記憶は定かでない。いまの子どもには想像もできない昔のことである。