あたらしい憲法

 あたらしい憲法が公布されたのは、敗戦の翌年、1946年11月3日である。小学校の2年生だった私に、そのときの記憶がまったくないのはやむをえない。新憲法について学んだのは、中学校に入ってからだったとおもおう。『あたらしい憲法のはなし』という小冊子によってである。

 「第9条 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。交戦権は、これを認めない」 前文での恒久平和の宣言とこの条項は、戦争の惨禍を直接体験してきた私たちにとって、水が砂地にしみ込むように自然に、何の抵抗もなく、当然至極のこととしてうけとめられた。これからの日本は、平和国家として国際社会で名誉ある地位を築いていくのだという思いを、誇りをもっていだいたのである。それは、当時の圧倒的多数の日本国民の共通の思いであったといってよいであろう。 

 しかし、他の条項については、そうすんなりとはいかなかった。「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」にまず引っかかった。賛成ではあるが、“およそ現実離れしているではないか?”というのが率直な感想であった。当時の山村での農民の暮らしは、宮本百合子が「貧しい人々の群れ」で描いたそのままの状態であった。つぎはぎだらけのぼろをまとい、日々の重労働でみな年より早く老け、お盆には食べる米も底をつくような生活である。憲法に書かれているのはまったくの絵空事ではないか、というのが実感であった。

 次に引っかかったのは、「両性の平等」についての規定である。当時の農村では女性の地位は極端に低く、女性が公の場に出ることもそこで発言することもいっさいなかった。そうした状況は、小学校の生活にも及び、女生徒がホームルームで発言し自分の意見をのべることはほとんどなかった。それでいて、公の場以外でこそこそと集まってはあれこれ他人の悪口を言ったり、決まったことに異を唱えたりするのが常だった。それらが、家父長制の家族のもとで女性がおかれた地位、永い歴史の負の遺産だということに、当時の私の頭はまわりようがなかった。いくら「男女平等」といっても、実際にはちがうではいか、というのが私のなかでその後も続いた固定観念であった。そこから脱却するには、その後の社会のありよう、特に女性の変化をふまえた、私自身の時間をかけての成長が必要であった。

 新しい憲法を大切なものとうけとめながらも、同時にこのような違和感もぬぐい得なかったことを、いま思い起こす。憲法の人権規定や平和原則が、実際には実行されずあるいは踏みにじられていくその後の歴史は、はじめての憲法学習での私の違和感にそれなりの根拠があったことを裏づけている。欧米の諸国のように国民の力で永い年月をかけてたたかいとったとはいえない日本国憲法の諸条項は、これから実現すべき指標として、理念として、私たちに受けとめられていったのである。憲法の諸条項を本当にみずからの血と肉とする努力こそが、いまも必要とされている。安倍首相らのように、現実にあわせて憲法を変えるというのは、日本国憲法の成立事情を無視した本末転倒でしかない。