白井聡著『国体――菊と星条旗』(集英社新書)

 先日、地元の9条の会で「安倍政治の源流――日本会議とは何か?」と題して講演をおこなった。日本会議の思想と実態をつうじて、これに支えられ一体化している安倍政治の本質を深くとらえる手掛かりになれば、という意図で話をした。その中心点は、日本会議の原点が1937年に文部省が刊行した皇国史観のもっとも狂信的な到達点をしめす『国体の本義』にあるということにあった。それからしばらくして、本書を店頭で見つけて興味をもって購入し、読んでみた。著者は1977年生まれ。早稲田大から一ツ橋大の大学院に学び、京都精華大の講師をしている若い学者である。『永続敗戦論――戦後日本の核心』で石橋湛山賞を受けている。

 戦前の支配層が戦争終結を決意したのも、ポツダム宣言の受け入れに踏み切ったのも、「国体」の護持が最大の動機であった。そして、戦後、新憲法制定にあたって、国会論戦で最大の争点になったのは「国体」が変わるか否かであった。吉田茂首相をはじめ当時の支配層は、野党側からどんなに激しく追求されても、「国体」は変わらないと主張しとおした。万世一系天皇主権から、国民主権に根本的に転換する憲法の制定にあたりながら、これは驚くべきことであるが、「国体」の護持はそれほど至上命令だったといえる。

 著者は、戦前の「国体」は戦後も引き継がれたという見地を基本にすえる。しかし戦後の「国体」はアメリカが主権を握る占領支配の継続であり、天皇はアメリカの支配を受け入れ、その統治を助ける存在として機能してきたという。だから、アメリカが日本の主権を握る根本的な事態を不問にしたまま、憲法を変えるか、変えないかの議論は不毛だというのが著者の見解のようである。アメリカに主権を握られたまま、憲法を変えようと変えまいと、日本はアメリカの世界規模での戦争の片棒を担がされ、これからもいっそう増大してその役割を担わされていく、というのである。

 米軍基地の存在を「日本の防衛」「世界の警察」「中国の脅威」などで合理化する議論に対して、「対米従属を合理化しようとするこれらの言説は、ただ一つの真実に達しないための駄弁である。そして、ただひとつの結論とは、実に単純なことであり、日本は独立国ではなく、そうありたいという意思すらもっておらず、かつ、そのような現実を否認している、という事実である」という。

 著者によれば、敗戦後日本に進駐してきたアメリカ軍の総司令官マッカーサーと会見した天皇が、自分はどうなってもいい、国民を救ってほしいと要請し、これにマッカーサーが感激し、天皇に敬意をいだいた、というどこまで真実か定かでない神話によって、天皇の国民にたいする責任は果たされ、昨日まで鬼畜米英であったにもかかわらず、国民がマッカーサーの支配をうけいれる精神的な道筋が引かれたという。

 かくて「戦後の国体」は、占領下の天皇制民主主義としてはじまり、1960年の安保改定を支配層が乗り切ったことによって定着した、という。この時期は、東西冷戦のただなかである。日本は、安全保障をアメリカにゆだね、基地を提供し、沖縄を犠牲にし(昭和天皇が講和にあたって米軍の駐留と沖縄の日本からの切り離しをアメリカに要請したのはその象徴である)、そのかわりに高度経済成長という経済的繁栄を手に入れた。しかし、1990年代に冷戦構造がなくなり、日本の経済的繁栄も終わり、アメリカが主権を握る戦後「国体」の存在意義は消失した。にもかかわらず、対米従属は解消されるどころか、ますます深まり、そこから抜け出す選択肢すらないかの如くである。ここに、現代日本の最大の不幸があるというのが、本書のおおよその論旨である。

 これまでの論議にとらわれない大胆な発想とシャープな切口で、現代日本の根本問題にずばり切り込んでいるのは見事である。しかし、60年代から70年代にかけての新左翼の評価など個々の論点に納得できないところがあるばかりでなく、根本において、日本国民のたたかいとそれによる歴史的な前進への展望が、本書のかぎりでは視野に入ってこないことを指摘しないわけにいかない。占領下、あるいはその後の安保体制のなかで、民主主義と対米従属打破のたたかいには、マスコミをふくめ決定的ともいえる弱点をいまも抱えながらも、沖縄県民のたたかいにもみるように、また安保条約の廃棄、対米従属打破の主張が一歩ずつ国民的共感を広げつつある事実のうちに、時間はかかっても日本の将来を切り開く条件が蓄積されていることを見落としてはならない。(2018・5)