エミリー・ブロンテ『嵐が丘』(小野寺健訳、光文社文庫)

 著名な作品で当然読んでいて良いはずなのだが、目を通す機会がなかったということはしばしばある。私にとってこの作品はその一つであった。映画にもなんどもなっているのだが、それらに接する機会もなかった。さきごろたまたま新聞の読書欄に、この作品を座右において手放したことがないという女性のエッセイが載っていて、ふと読んでみる気になった。光文社版を選んだのは、訳が一番新しかったからで、とくに理由があったわけではない。

 19世紀半ばの作品で、イギリスの北部、ヨークシャーのヒースの生える寒村を舞台にした物語で、作者はこれ一作を書いて29歳で生涯を終えている。一読して驚いたことに、私が予想していた内容とはおよそ違ったすさまじい話である。若い女性が書いたというから、生真面目な女性の成長物語くらいに思っていたのが、およそ見当外れだったのである。

 これはおぞましい復讐劇である。ヒースクリフという不幸な生い立ちの主人公が、自分を差別し、しいたげた嵐が丘の人々に襲いかかり、徹底的に破滅させていくのである。

 アーンショウ家の娘、幼馴染で仲の良かったキャッサリンが、自分を捨て、リントン家のエドガーと結婚したのに絶望したヒースクリフは、嵐が丘の家から姿を消す。三年後に現れた時は、人が変わったようにたくましく成人している。彼は、自分を追い落したキャサリンの兄、ヒンドリーをその性格の弱さに付け込んで破滅させ、嵐が丘の財産をもすべて奪う。そして、キャサリンエドガー夫妻の間にも介入して、二人を自殺同様の無残な死に追いやり、その財産をも独り占めにする。そして、復讐の手を、ヒンドリーの息子や、エドガー、キャサリン夫妻の娘にまで伸ばしてゆく。これはもはや正気の沙汰ではない。

 ヒースクリフとは、ヒースの崖という意味である。その名がしめすように、荒れ果て憎しみに歪んだ得体のしれない性格の男である。若い女性の作者がどうしてこのような人間を描き出したのか、とても理解しがたい。イギリスは当時産業革命を経て、資本主義が本格的に発達する時代である。ヒースの生い茂る荒涼としたヨークシャーの山地には、そのような社会的変動は感じられない。ただ、イギリス伝統の貴族制度、身分制度が、ヒースクリフを不幸に追いやる根底に横たわっている。そう言う社会で虐げられた人間の憤怒と怨念を描いているとも言えなくもない。しかし、ヒースクリフのおぞましい魂の根底にあるのは、キャサリンへの不動の愛である。その不愉快きわまる言動や人柄にもかかわらずにである。ここに、この作品のむずかしさがある。

 この作品は、ロンドンの都会暮らしを逃れて嵐が丘の屋敷を借りて住み出したロックウッドという男が、屋敷の所有者であるヒースクリフへの挨拶に訪れるところからはじまる。初対面のヒースクリフとその家族の客に対する対応ははじめから異様で不気味である。いったいどういう一家かと不思議に感じたこの男に、屋敷付きの女中のネリーが語り聞かせるという形で話が進む。したがって、ヒースクリフヒースクリフをめぐる人間たちの物語であるが、ネリーという女中の目を通した物語であり、語られる内容は、貴族に仕えるこの女性の価値観や感性を反映している。そういう意味では、描かれている人物がどこまで、その真相をとらえているかは定かではない。ヒースクリフにしても、キャサリンにしても、とても不可解なところが多い。そのことが、作品の不出来を意味するのか、深さを意味するのか、私には判断しかねる。はたしてそれほどの名作か、という疑問もぬぐえない。(2018・5)