遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)

 隠れキリシタン関連の世界遺産登録が話題になっているおり、書店の平台に積まれていたので読んでみる気になった。作者はカトリックの信者であるから、無神論者の私はこれまで敬遠して、作品を読んだことがなかった。この作品も、神は存在するのか、信仰とは何かという宗教者にとっては重いテーマを扱っている。

 秀吉から家康へと政権が変わり、徳川幕府は1614年、すべての聖職者を海外へ追放するとともに、過酷な弾圧にのりだす。棄教をうながす踏み絵や、むごたらしい拷問が信者を襲う。そのなかには、聖職者や信者を雲仙地獄にひきたて、湧き出す熱湯をあびせつづけて死に至らすという残虐な仕打ちも含まれていた。そんな時代、ローマ教会に一つの報告がもたらされる。ポルトガルイエズス会が日本へ派遣したクリストヴァン・フェレイラ教父が、長崎で「穴吊り」の拷問にあって、棄教を誓ったというのである。フェレイラは、ポルトガルでもたぐいまれな高潔の教父として多くの司祭、信者から尊敬を集めてきた人物で、日本での20余年にわたる布教で多くの信者を獲得する実績をつくりあげてきた模範的な教父である。

 かつてフェレイラの学生でもあった3人の若い神父が、フェレイラ棄教の真偽をたしかめるとともに、弾圧に苦しむ信者を援助するために日本への渡航を願い出る。セバスチャン・ドロリゴ、フランシス・ガルべ、ホアンテ・サンタ・マルタである。当初、厳しい取り締まりと弾圧下の日本への渡航は危険すぎると渋ったローマ教会は、3人の不退転の決意と熱意を前に渡航をみとめる。1638年3月25日、3人を乗せたインド艦隊の「サンタ・イサベル号」は出航、マデイラ、喜望峰、ゴアを経て苦難の連続をしのいで澳門マカオ)に到着する。ここで巡察師ヴァリニャーノの厳しい警告をうけながら、キチジローなるいかがわし気な日本人と船を雇い、病気のマルタを残して二人の司祭は闇に紛れて長崎付近に上陸する。推測どおり転びキリシタンだったキチジローの案内で、隠れキリシタンの集落を訪れ、信者とともにミサをおこなうなど祭司としての任務を遂行する。追及の手がせまるなかで、ドロリゴとガルべは別行動をとり、それぞれ単独で危険をおかして信徒の住む村で活動する。

 しかし、キチジローの密告によって捕らえられたロドリゴは長崎に送られる。そこで切支丹弾圧の中心となっている井上筑後の守と対座させられる。井上はロドリゴにいかなる危害も加えない。獄に繋がれて一緒に捕らえられた日本人の信者らがむごたらしい拷問のうえ殺されていくのをじっと耐える日がつづく。日本の信者を救うためには、棄教しかないと迫られる。やがて、棄教したフェレイラと対面させられる。フェレイラは、永年の布教によって信者になった日本人の神は、自分たちの神ではなかった、そのことを知って自分たちの布教が無意味であったことを悟ったと語る。むごたらしい拷問、惨殺をまえに、神はなぜ沈黙しているのか? ロドリゴの頭のなかで次第にこの疑問が膨らんでいく。

信徒を助けるためには、踏み絵を踏むしかない、神はそれを許すはずだ、それこそ本当の信仰ではないか? こうした懐疑から、ロドリゴはついに踏み絵を踏む。そして、名前も岡田三右衛門と日本名にかえて、幕府に仕えて生涯を終わる。切支丹屋敷役人の日記がその後の三右衛門の足跡をたんたんと記す。

 神はなぜ沈黙をまもるのか? この疑問への回答は存在しない。ロドリゴの決断を、世界遺産に登録される隠れキリシタンの末裔たちはどう受けとめるであろうか?疑問はいつまでも疑問のままである。(2018・5)