『五日市憲法』(岩波新書、2018・4))

 刊行されたばかりの新書である。著者は、1944年生まれ、専修大学教授。東京経済大学色川大吉氏のゼミナールの学生として、1968年に多摩民権運動の拠点であった五日市の旧家、深沢家の土蔵にあった資料の調査にあたり、五日市憲法を発見、いらい50年余にわたってこの憲法について研究を続けてきた。本書は、その成果を著者の研究足跡をもたどりながら紹介した貴重な文献である。著者は、大学卒業後、町田市の職員となり、町田市史の編纂にたずさわり、同市の自由民権資料館建設の責任者、同館主査を務め、国立歴史民俗博物館助教授を経て現職にある。

 五日市憲法は、「日本帝国憲法」の表題で、幻の憲法草案として知られていた櫻鳴社案とともに発見された。千葉卓三郎の署名があった。他の史料もいろいろあったので、著者は最初、大日本帝国憲法の写しくらいに思ったようである。ところが、まったく知られていなかった憲法草案で、しかもそこには、国民の人権規定に一番多くの条文をあてる進歩的な内容が込められていた。その内容の分析とともに、なぜこの憲法案が五日市で作られたのか、千葉卓三郎とはどういう人物か? 解明すべきいくつもの謎が若き著者のまえに提示された。

 この草案の内容については以下のように述べられる。「五日市憲法の特徴は、国民の権利、国会の規定を主とする立法権司法権に表れている。全体としては、多くの私擬憲法に共通する立憲君主制天皇と民撰議院と元老院で成り立つ三部制の国会、立法・行政・司法の三権分立主義をとる憲法といえる。しかし、その主眼は、三六項目に及ぶ国民の権利保障と、行政に対する立法府の優位性の位置づけ、国民の権利を周到に保障するための司法権の規定にあることは間違いないだろう」(35ページ)

 各地の結社に支えられた民権運動は1880年3月に愛国社第4回大会をひらく。そこには、全国2府22県からの総代96名が、8万7千の国会開設請願委託署名をたずさえて集う。同年11月には、国会期成同盟第2回大会が開かれ、翌年11月に開催する第3回大会に向けて各地の結社が憲法草案を起草して持ちより審議することが決定された。この決議によって、全国各地で憲法起草の作業が進められる。五日市憲法草案もその一つである。だが、政府が81年11月に国会開設の詔を発したことにより情勢が急変し、第3回大会はひらかれなかった。そのため、つくられた草案は蔵に胎蔵されることになったのである。

 五日市では、五日市櫻鳴社を核に1880年に五日市学芸講談会が結成されるなどして、演説会や討論会が活発に開かれている。当時五日市には勧能学校という学校があり、ここの教師たちがその中心になる。千葉卓三郎もその一人である。

 千葉卓三郎とはいかなる人物か?著者の探索は、学生時代から始まる。手がかりとなったのは、深沢家文書のなかから見つかった一片の紙片である。そこには、千葉が宮城県の出身であることを示す文言があった。著者はこの紙片をもって宮城県を訪ねる。以来何十年もかけて明らかになったのは、千葉が仙台藩の下級士族で、戊辰戦争仙台藩会津藩などの連合軍と薩長軍とによる白川城をめぐる戦いに参戦し、敗軍の士卒として維新後、松島で石川櫻所について医学を、つづいて鍋島一郎という人について「皇学」を学ぶ。さらに、上京してニコライ堂ギリシャ正教会で洗礼をうける。そして、ペトル千葉の名で布教にあたっている。その後、儒学者の安井息軒に師事し、さらにラテン学校に通う。そこで知り合った人の手引きで五日市の教職につき、民権運動に加わるのである。五日市憲法がこのような経歴を持つ人物によってしたためられた事実に、明治民権の歴史の重みを伺い知ることができる。(2018・5)