白井聡著『永続敗戦論』(太田出版)

 1970年生まれの若い政治学者の著作だが、さきごろ同じ著者の『国体――菊と星条旗』という著作を読んで、これはただものではないとの印象を受けたので、読んでみようと思った次第である。論旨がやや通らないというか、未整理なところがあって、いま一つ咀嚼しにくいのだが、日本の戦後をどうとらえるかという大問題に正面からとりくんでいる。

 冒頭、福島原発事故をめぐる日本の支配層の無責任ぶりについて、戦争と敗戦にいたる過程での戦前の支配層の無責任ぶりをそっくり再現するものと指摘する。「国体」に体現される戦前の政治体制の在り方が、基本的には戦後そのまま今日まで生き続けて来たというのである。戦争と戦前の政治体制について、きちんとした反省と総括を怠ってきた戦後政治の致命的な欠陥を突いているといえよう。

 そのうえで著者は、戦後の日本では「敗戦後」は存在せず、「敗戦」がずっと続いているという。「それは二重の意味においてである。敗戦の帰結としての政治・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(―それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二面性は相互に補完する関係にある。敗戦を否認しているゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続ける限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、『永続敗戦』という」(47~48)

 そして、この『永続敗戦』は戦後の「根本レジューム」になったという。つまり、戦後民主主義にたえず不平を言い立て戦前的価値観への復帰に共感を示す政治勢力が、「戦後を終わらせる」ことを実行しようとはしない。つまり、対米従属を当然のこととして受け入れ、敗戦=占領からの脱却、日本の真の独立、主権の回復にとりくもうとさえしない政治構造が定着してきたのである。

 このもとでの日本の「平和と民主主義」あるいは「平和と繁栄」は、主権放棄、アメリカのアジア戦略への無条件の奉仕、基地の提供と沖縄の切り捨て、冷戦の最前線を韓国や台湾に担わせるという地政学擬制によってのみの存在し得るのであって、それらは、敗戦の否認という虚構のうえにこそ成り立っているという。「総力戦に敗北することによって属国化させられるということの本来的な厳しさ」を直視するなら、「象徴天皇制と同じように、日本の戦後民主主義体制もまた米国の国益追及に親和的なものとして初期設計されたものにすぎず、主体的に選び取ることができたものではない」(147)という。

 著者によれば、「戦前のレジームの根幹が天皇制であったとすれば、戦後レジームの根幹は、永続敗戦である。永続敗戦とは『戦後の国体』であると言ってもよい。そうであるならば、永続敗戦の構造において戦前の天皇制が有していた二重性(顕教性と密教性――引用者」)はどのように機能しているのであろうか」(165)という問いかけになる。「戦争は負けたのではない、終わったのだ」――この神話が「平和と繁栄」の「顕教」であり、対米関係における永続敗戦、すなわち無制限かつ恒久的な対米従属をよしとするパワー・エリートたちの志向」が「密教」の次元だという。つまり、敗戦による主権の喪失、アメリカへの無制限の従属の続行、ここにこそ日本の戦後史の最大の問題があり、この問題に目をつむりあるいは打開しないでは、どのような平和も民主主義も虚構にすぎないというのが、著者のいいたいところである。戦後の日本国民の平和と民主主義への粘り強いたたかいの累積を著者の文脈のなかでどう評価し、位置づけるかという大きな問題が残りはするが、対米従属の解消、真の意味での日本の主権の回復こそ、大企業の支配の打破とともに日本の当面する二大政治課題とみなしてきた私たちの主張を、基本的なところで若い世代の目によって裏づけてくれている。(2018・5)