チャールズ・ディケンズ『荒涼館』(佐々木徹訳、岩波文庫)

 2017年に岩波文庫版が刊行されたので、挑戦することにした。1853年に初版が出ている。ディケンズを読むのは、『二都物語』『大いなる遺産』に続いて、第三作目である。シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』が刊行されたのがたしか1847年で、発売と同時に大きな反響を呼んだ。ディケンズのこの作品の主人公エスターは、ジェイン・エアに触発されたところがあると言われる。不幸な生い立ちの女性が凛々しく生きていくという点ではたしかに似たところがある。しかし、ジェイン・エアが自立した強い意志と判断力をもって自らの道を切り開いていくのにたいして、エスターは、もっとおとなしい、しかし聡明で実務的な女性として描かれている。

 エスターは、父はもとより母も知らない。育ててくれた厳格な代母からは、「あなたはおかあさんの恥、おかあさんはあなたの恥。その意味はいずれわかるでしょう」としか聞かされていない。物語はこのエスターと、彼女が一家の世話役として身請けされた荒涼館の人々、主人のジャーンダイスと美しい娘のエイダ、快活だが性格的に欠陥のあるリチャードを中心に展開される。

   資産家のジャーンダイスは、遺産相続をめぐって何十年も続く大法官裁判の当事者であるが、裁判には背を向けて生きる。この裁判は、訴訟にかけられた財産から裁判費用がまかなわれるため、長引けば長引くほど、訴訟の当人たちは損失をこうむり、やがてすっからかんになってしまう、その分、裁判官や弁護士が潤うという大変欠陥の多い制度であったようだ。この裁判にかかわって身をほろぼしたり、発狂したりする人が続出する。荒涼館のリチャードもその一人である。エスターは、リチャードとその恋人のエイダの世話をしながら、荒涼館の家事万端をとりしきり、主人のジャーンダイスから厚い信頼と愛情をうける。その間、ウッドコートという名の青年医師と知り合いになり、やがてこの青年医師から愛の告白をうけるのだが、ジャーンダイスに忠誠をつくすエスターは、これをきっぱりと断る。

 舞台はもう一つ、デッドロック准男爵、レスターとその妻で社交界に君臨する気位の高いオノリアをめぐって展開される。この家の弁護士、タルキングホーンから例の訴訟に係る書類を見せられたレデイ・デッドロックは、その文書の筆跡をみて仰天し、卒倒してしまう。なぜ彼女はそんなにショックを受けたのか? ここから、裁判所の文書を筆記した貧しい代書人と彼が住むアパートやそこの住民、浮浪者、孤児などへと話は展開し、かれらにまつわるエピソードがくりひろげられる。こうして話は、上流階級から、貧しい人々、労働者から浮浪者にまでひろがっていく。

 有力な弁護士の殺人事件もからんで話はミステリーの要素もふくみながら進行する。しかし、この作品の最大の特徴は、19世紀中葉のイギリス社会のあらゆる階級、階層の人々の姿を生き生きと活写しているところにあるように思う。貴族とそれに仕える人々、法曹界はもとより、勃興しつつある労働者階級、慈善事業やアフリカへの移民に現を抜かす夫人たち、元騎兵隊員とこの人物が経営する射的場、金貸しの老人、下宿屋、法律関係文房具をあつかう商人と、当時の社会のさまざまな階層の人々がそれぞれ個性的な姿で登場する。まさにヴィクトリア朝のイギリス社会がまるごと描かれているのである。ここにディケンズの真骨頂があるといえよう。(2018・6)