宮部みゆき『過ぎ去りし王国の城』(角川文庫、2018・6)

 この作者の作品を以前にはよく読んでいたのだが、この数年間遠ざかっていた。たまたま書店でこの文庫が目にとまり、一見風変わりなタイトルに惹かれて読んでみた。作者は、『火車』や『理由』など、現代社会のシリアスな問題を題材、テーマにしたミステリーとともに、『あやし』など江戸時代を舞台に幽玄の世界を描く、幻想ものともいえる作品を結構たくさん書いている。青年将校らのクーデタ未遂事件、2・26事件をえがいた『蒲生邸事件』などもその手法を駆使した作品である。本作もまた、現実と非現実の世界を交錯させる作者ならではの世界をえがく。

 推薦入学が決まって時間を持て余す高校三年生の尾垣真は、ある日銀行のロビーに展示されていた小学生の絵に添えるようにぶら下がっていた一枚のデッサンに魅せられ、家に持ち帰る。ヨーロッパの古城を描いた作品である。真はごくごく目立たない、普通の少年である。まわりからはつまらないやつとみなされている。真がデッサンに手を触れると、デッサンの世界に引き込まれるような感覚に陥る。そこで、この絵に人間を書き込み、そこに手を添えると本当に絵の世界に、ヨーロッパの中世の世界に入り込んでしまう。しかし、入ったとたんにバタっと倒れてしまう。真は、これは自分の描いた人間がへたくそだからだと悟る。そこで、まわりから無視され、いじめの対象にもなっている同級生の城田珠美がとてつもなく絵がうまいことに気づき、城田にデッサンの秘密を語り、協力を申し出る。城田は、周囲の軽蔑や黙殺に超然としているが、実は、父の再婚相手の義母とうまくいかず、携帯電話で時々父と言葉を交わすのが唯一の慰みという生活を送っている。

 城田は真の提案にしだいに乗り気になり、デッサンの画面にツバメを書き込む。真がこれに手を添えるとツバメとなって古城の世界で実際に空を飛ぶことができた。そして、古城の塔の窓から顔を出す一人の少女を発見する。少女は閉じ込められているのではないか、救わなければ、と真はおもう。こんどは、城田に人間を2人書き込んでもらい、真と珠美の2人で古城の世界に入り込む。しかし、森や林をくぐっても古城には到達できない。そのかわりに、古城の世界で、バクさんという中年のおじさんに出会う。漫画家を志望しながら、実際には有名漫画家のアシスタントに甘んじているバクさんの心の底には、現状への失意が潜んでいる。バクさんもまた、例の銀行ロビーでデッサンに目をとめ、それを撮影してコンピュータ画面を通じて古城の世界に入り込んでいたのである。

 バクさんから真たちは、10年も前に真らの街で起こって迷宮入りしている少女失踪事件のことを知らされる。不明となった少女は、母とも再婚した母の連れ合いともうまくいかず、虐待まがいの仕打ちもうけていたとのことであった。バクさんによれば、古城の少女は行方不明となっているこの少女である。バクさんと城田は、この少女を救出しようという。しかし、それが実際にできれば、10年前の少女失踪事件はなかったことになり、少女は生きていて19歳になっているはずだ。それは、真らの住む世界とは違った世界の現出である。それをあえて実行するか、現状に不満のバクさんと城田は断行を主張するが、現状に不満のない真はとまどう。

 概略こんなストーリーなのだが、奇想天外と言えばそれまでである。しかし、絵を描くことに、あるいは魅入った絵に夢中になって、実際に絵の世界に入り込んでしまうことはありうることである。現実に不幸を背負い、そこからの脱出をねがうバクさんや古城にとって、そこに希望と夢を託する気持ちが混入してもおかしくない。そんな、夢と現実の交錯を、作者はたくみにメルヘンチックに描きだしている。(2018・7)