アイザック・ディネーセン『アフリカの日々』(横山貞子訳、晶文社、1985)

 朝日新聞の読書欄に比較的最近紹介されていたのを目にとめ、興味をひかれて読んでみた。作者、ディーネセン(1885~1962)は、デンマークを代表する作家だが、作品を読むのは今回が初めてである。ディネーセンは、1914年にスェーデンの貴族プリクセン男爵と結婚してアフリカに渡り、ケニヤのナイロビ近くの高地に6000エーカーの土地を購入して、コーヒー農園の経営に乗り出す。しかし、農園は海抜が高くコーヒー栽培には適さなかったうえ、結婚生活はすぐに破綻、にもかかわらずアフリカを愛する作者は、大地にしっかり根を下ろして1931年まで18年間、農園経営で苦闘を続ける。その体験を回想的につづったのが本書である。1934年に初版が出ている。作品は1985年に公開されたシドニー・ボラック監督、メルリー・ストリープ主演の映画「愛と哀しみの果て」の原作である。映画は、アカデミー賞を受賞している。

 ケニヤは当時イギリスの植民地であった。作者は植民地経営の一端を担う支配者としてそこにおもむいたのである。相手は文明のおよばぬ未開の大地であり、住民は、マサイ、キクユ、ソマリ族などの野蛮な原住民である。多くの西欧人が当然のこととしてこの地と人々を軽蔑し、いかなる意味でも自分達とは異質の一段劣った人間として突き放してとらえていた。そんななかで、ディネーセンはアフリカの大地、ケニヤの高地の豊かな緑と爽やかな風、象やキリン、バファローなどの野生動物が駆け抜ける草原など、その豊かな自然に魅せられただけではない。様々な種族からなるアフリカの人々になじみ、その文化と伝統、生活様式、あるいは思考様式を深く理解し、それらを公正に評価し尊重するだけでなく、敬意をもって接する。一言でいえば、アフリカの自然と人々との交わりに、みずからの新たな生命と息吹をみいだしたのである。

 例えば、自分の農園の一部を借りて耕作をする原住民との関係について次のように述べる。「私は六千エーカーの土地をもっていたので、コーヒー園以外にかなりの空地があった。農園の一部は自然林で、一千エーカーほどが借地、いわゆるシャムパスになっていた。借地人は土地の人で、白人の農園の中で何エーカーかを家族とともに耕作し、借地賃代わりに、年に何日か農園主のために働く。私のところの借地人たちはこの関係について別の見方をしていたと思う。というのは、彼らの大半は父親の代からその場所で生まれ育っているからだ。彼らの方では私のことを一種の高級借地人とみなしていたらしい」 ここでは、主客が逆転して、自分達こそ土地の主人公だという原住民のプライドを素直にそのまま認めているのである。自宅の邸宅には、大勢の原住民が従僕としてあるいはハウス・ボーイとして働いている。これらの人たちに対しても、主人公はきわめてていちょうであり、温かく節度のある接し方をしている。

 あるとき、屋敷のしごとを手伝っている子供たちの間でたまたま猟銃の誤射事件があり、一人の子どもが死亡し、一人が瀕死の重傷を負う事件が起こる。西洋の常識では、犯人は誰で、犯行の動機はなにかをまず究め、それによって量刑を判断する。ところが、ケニヤの原住民の間では、まず被害者の損失はどれほどか、それを償うには牡牛何頭が必要かが問題になる。犯行にどういう動機があったかなどはさほど重要視されないのだ。こうした、文化の違い、思考様式の違いをよく観察し、それにたいして理解と尊敬をしめす。ここにディネーセンの卓越した人間性があらわれている。

 アフリカの人々が植民地支配から脱却して自らの手で独立した国家をつくりだしている現代なら、ディネーセンのような態度や思考はさほど珍しいものではないだろう。しかし、時代は、二〇世紀初めという植民地主義の全盛期である。アフリカとそこに生きる人々への人間としての温かさ、偏見のない心の広さ、率直さは、敬服に値する。美しくたくましいい自然の描写とあわせて、本書がいまも読者を魅了するゆえんである。(2018・8)