ディケンズ短編集(小池滋、石塚裕子訳、岩波文庫)

 

 ディケンズと言えば、大長編作家というのが常識である。『短編集』があるというのは知っていたが読んだことはなかった。このたびこの作者の作品を系統的に読んできたので、この機会に目を通すことにした。収められているのは、初期の長編である『ピクウィック・クラブ』のなかに織り込まれている挿話などが中心で、独立した作品として発表されたものは、後半の「追い詰められて」「子守女の話」「信号手」「ジョージ・シルバーマンの釈明」の4本だけである。「墓堀り男をさらった鬼の話」「旅商人の話」「奇妙な依頼人の話」「狂人の日記」の4篇は『ピクウィック・クラブ』からの収録、「グロッグツヴィッヒの男爵」「チャールズ2世時代に獄中で発見された告白書」「ある自虐者の物語」の3本は他の長編小説に収められていた挿話である。

 ディケンズは他にも多くの短編小説を書いているようだが、本書の解説によるとここに収録した作品には次の三つの特徴が際立っているという。「1、超自然的で、ホラーとコミックが奇妙に混在していること、2、ミステリー的要素が強いこと、3、人間の異常心理の追究」。そういえば、『ピクウィック・クラブ』などは、主人公のピクウィックが無類の好人物で禿げ頭に鼻眼鏡をかけた太っちょという設定で、明るくユーモラスな作品だが、どういうわけかそのなかに挿入されている逸話は、いずれも暗く陰湿な人間がえがかれている。最初の「墓堀り男をさらった鬼の話」は、クリスマスの夜に陰気で孤独な男、ゲイブリエル・グラブが鬼に出会い、改心を迫られるという話である。クリスマスの三夜にわたって孤独で貪欲な主人公が幽霊に諭される後の『クリスマス・キャロル』の原型ともいえる話である。「奇妙な依頼人の話」は、借金が返せないで債務監獄に入れられている間に、妻と幼いこどもを極貧のうちに亡くした主人公が、家族の窮状を黙殺した妻の兄に復讐する話である。

 「ある自虐者の物語」「ジョージ・シルバーマンの釈明」は、恵まれない環境にそだった主人公が周囲の人たちの善意や親切をことごとく自分に対する優位を示す裏のある行為と受け取るという特異な心理を描き出した作品である。自己卑下と裏腹の周囲に対する軽蔑、さげすみが結局のところ自己を破滅に導くというストーリーである。他の作品も似たり寄ったりで、いずれも暗く陰湿で、なかにはスリリングな要素の強いものもある。

 『ピクウィック・クラブ』のような明るく陽気な作品のなかになぜディケンズがこのような挿話を挟み込んだのか、正直のところ理解に苦しむ。物語の展開による必然性もまったくないのである。当時長い作品のなかに、独立した小編を織り込むのが一つの作風だったと言えばそれまでだが、それにしても作品と異質な感は否めない。

 ディケンズは、軍人であった父親が家計の破綻で一時債務監獄に収容されたさい、10歳そこそこで少年工として靴墨工場でのきびしい労働を強いられている。いまも残るきわだった階級社会で最下層の労働者に貶められた屈辱と絶望は、感受性の強いこどもだったディケンズの生涯とその精神生活にとって、癒すことのできない傷跡を残したといわれている。暗く陰湿でいじけた人間を、貧困や債務奴隷の悲劇とともに描くことに執着した背景には、ディケンズ自身のこうした体験があったことは間違いないであろう。そして、そのことがディケンズの眼を貧困や下層社会をふくむ社会全体に向けさせ、作品の広がりと厚みを生む力になったことも明らかであろう。陰気で暗い人間を描いた短編集はそのことを教えてくれる。(2018・8)