浅田次郎『長く高い壁』(角川書店)

 日本ペンクラブの会長を務めたこの作家の作品をこれまで一度も読んだことがなかった。日本がおこなった戦争の実相に迫るという新聞書評を見て、読んでみようという気になった。それなりに面白かったが、いま一つ印象が薄いのはなぜだろうか?

 舞台は1937年、日中戦争が本格化する時代である。売れっ子の推理作家の小柳逸馬は、従軍作家として北京に派遣される。北京ではなすべきこともなく、見聞した街の様子をエッセイに書くが、川路という検閲担当の若い中尉に書き直しを命じられる。左官待遇とされる従軍作家の軍内での立場を改めて認識させられているとき、前線への派遣を命じられる。行く先も目的も一切伏せられたままで、同行は川路中尉だけである。いったい司令部はなにをたくらんでいるのか?

 北京から車で半日かけ着いた先は、満州との国境近く、万里の長城の壁がある張飛峰というところである。ここには1000人規模の日本軍が駐留していたが、支配圏を「満州」から中国東北部へ拡大しようとする日本軍が、その中心になる作戦、武漢への攻撃、いわゆる武漢作戦を開始したため、部隊の主力はこの作戦に投入された。残されたのは、士官学校を卒業したばかりの若い将校と戦力にならない老病兵と犯罪歴などを持つ問題兵30人だけである(ほかに若干の憲兵部隊は残る)。この30名は、三班に分かれて、交替で万里の長城にある陣地などを守っていた。ところが、そのなかの1班の10人がある日毒殺らしい変死体で発見される。現地の憲兵隊長らは共匪の仕業として処理しようとするが、現地の憲兵隊を実質的に指揮する小田島曹長は不審に思い、懇意にしていた司令部の将校に通報する。残留部隊内の不祥事を内密に調査し、処理しようというのが司令部の意向であった。探偵作家の小柳が張飛嶺に派遣されたのはその仕事のためだったということが、次第にあきらかになってくる。

 小柳は、川路中尉や小田島曹長と協力して兵士の聞き取りから事件の調査にあたるのだが、残された小隊の実態は、これが日本軍かと目を覆いたくなるばかりである。武漢へ派遣された部隊の主力は、大量の兵器、弾薬、食料、医療品などを残していった。残留部隊のなかの幾人かは、これらの遺留品を現地住民に密売してたっぷりともうけて遊興にあてるなど、軍紀の弛緩どころか、犯罪者集団にも劣らない腐敗、堕落の極みといった事態が広がっている。

 それにしても、毒殺だとするとだれがどこから毒薬を手に入れ、どういう処方で殺害におよんだのか? そもそもこの犯罪は分隊内部の腐敗した兵士同士の抗争によるものではないか? 謎は深まる。そんななかで、現地住民に尊敬されている医者が疑われて憲兵隊長に射殺される。ところが、この殺人は、実はもっと深いところでくわだてられていたことが最後に暗示される。

 こうして、戦線を中国全土に広げ、そのためにあきらかに兵士不適格者まで動員していった日本軍の実態が赤裸々に描かれ、さらに自軍の兵士たちの命をもてあそんで恥じない軍指導部の非人間性に迫っている。軍内部の暴力や人権じゅうりんなどは、これまでもそれなりに書かれてきたが、非行、犯罪者集団と化していく日本軍の内部の実相にまで迫った点では、ユニークな作品である。ただ、せっかく派遣された探偵作家、小柳の影が薄く、事件の解明にどういう力を発揮したのか、抽象的な言葉で説明があるだけで定かでない。そもそも、軍隊のなかでは自由に行動もできない従軍作家を軍内の不祥事解明のために派遣するという設定そのものに無理があったのではないか、というのが、私の率直な感想である。(2018・9)