司馬遼太郎『峠』(上中下、新潮文庫)

 司馬遼太郎の作品はこれまで『坂の上の雲』くらいしか読んで来なかった。歴史小説の大家であるから他の作品にも挑戦してみようとかねがね思っていたのだが果たさずに来た。妻に勧められて挑戦する気になったのがこの作品である。戊辰戦争とならんで維新をめぐる決戦場となった北越戦争の中心地である越後長岡藩の家老、河井継之助という人物を描いている。新潟出身の私たち夫婦にとって長岡は格別に親しみのある地でもある。

 自分の郷里でありながら長岡藩の歴史についても、河井継之助なる人物についても、実はまったく知らなかった。明治になってから渡米して『武士の娘』という著作を書いてアメリカで有名になった杉本鉞子について、長岡藩の家老の娘であったことをふくめて調べたことがあったくらいであった。それだけに、北越戦争の全容と会津藩の側に立って薩長を中心とする官軍とたたかった長岡藩を率いた河井継之助について、知的衝撃とともに学ぶことが多かった。それが、本書を読んだ最大の感想である。

 継之助は若くしてその異才で突出していただけでなく、陽明学を学んで知行一致を実践し、幕末の苦難の時代に一身で藩を背負って立つ決意のもとに江戸に出て諸国の学者を歴訪して学び見聞を広げる。欧米の圧力をまえに国の独立さえ危うくなるなかで、幕藩体制は揺らぎ、薩長を中心とする尊王攘夷派と幕府の対立が決定的な局面をむかえる。継之助は、武士の世が終わろうとしていることを見抜き、朝廷のもとでの天下の統一、欧米の知識や技術の導入による開化策以外に日本の生きる道がないことを洞察する。

 にもかかわらず継之助は、長岡藩の家老、やがて上席家老=事実上の首相に任命される。そこで、侍として節を貫き、譜代大名の藩主に命をささげる道を選ぶ。継之助がとったのは、薩長に屈するのでなく、かといって会津と運命を共にするのでもなく、両者に対して距離をとりつつ、藩の軍備を洋式化・強大化することによって発言権を保持し、中立を貫きとおして戦火を避ける、という道である。いわば、武装中立で小国の独立を守るスイスのような道である。その選択肢によってのみ、7万石という小藩が生きのびることができる、というのが河井の判断であった。その戦略が失敗した場合、藩主の父子を海外、フランスへ亡命させる手はずまで、継之助はととのえていた。

 北越討伐に赴く官軍の総司令官は山県狂介(有朋)である。官軍は、薩長軍を主力に、近畿、中国から越前、松本、高田などの諸藩の軍を結集して、越後の高田に総結集する。そして海岸の柏崎、山道の栃尾の二手にわかれて長岡に大挙して進軍する。継之助は、戦をさけるため決死の覚悟で官軍総督公卿への嘆願書を持参して、官軍陣地へ赴く。嘆願は官軍の現地指揮官によってにべもなく拒絶される。ひきかえす継之助は、会津と同盟して藩の総力をあげて官軍を迎え撃つための総指揮をとる。そして、激戦のなかで命を落とす。

 河井継之助の苦闘とこの壮絶な戦いをつうじて、武士の道に生きるさむらいのさむらいたるゆえんが、いかんなく発揮される。そこには、さむらいの醇化され、美化された姿が感動的に描き出されている。継之助という特異な人物は読者の共感を呼ばずにおかない。

 朝廷をかついでいるとはいえ薩長などの卑俗なやからに頭をさげるわけにはいかない、かといって会津に組しても先はない、藩の家老としての責任をどうはたすか?苦慮の末の選択だった。しかし、結果として藩は取り潰され、城下は灰燼に帰した。そればかりか、継之介が強行した藩の軍備強化は、農民に耐えがたい負担を強要したであろう。作者の筆はそういう側面にはおよんでいない。そこには、『坂の上の雲』で日露戦争を描きながら日本による朝鮮の植民地化にはいっさい触れなかったのと同じ論理が働いていないだろうか?(2018・12)