司馬遼太郎『関ケ原』(上中下、新潮文庫)

 関ケ原の戦いは、壇之浦、鳥羽伏見の戦いとともに日本歴史上の三大決戦のひとつといわれる。この決戦に勝ったことで、家康の支配体制が固まり、その後300年近くにわたる徳川幕府の時代がはじまることになる。徳川方の東軍と石田三成方の西軍の合計十数万の軍勢が岐阜県関ヶ原で真正面から対決したのである。本書は、豊臣秀吉の死から一挙に広がる両陣営の対立、抗争から関ケ原の決戦にいたる歴史を、これにかかわる多くの多彩な人物とその動きによって、またそれぞれのエピソードをまじえて実に生き生きと描き出している。やはり一大傑作といってよいであろう。とくに強い印象を受けたことをいくつか記しておこう。

 一つは、なんといっても家康と三成との対比と葛藤である。秀吉の死後、事実上の後継者となっておっとり構えながら、知略を尽くして勢力をひろげるのが家康である。これにたいして、秀吉の懐刀となって朝鮮出兵をとりしきり、そのゆえに惨憺たる結果に終わった無謀な派兵にたいする諸侯の恨みを一手に引き受けることになったのが三成である。卓越した頭脳と豊富な知識、判断力をもち、正邪を明確にその鋭い舌鋒は他を寄せ付けないのだが、その半面、人間的な幅と温かさを欠き、信望がなく、孤立しがちである。秀吉の遺児、秀頼に忠節を尽くす大義のもとに毛利、山之内など西日本の諸大名を結集して、数の上では東軍を圧するのだが、その内部は、面従腹背にとどまらず、東軍の家康陣営に寝返るものが後を絶たない。家康はゆったりかまえながら配下に謀略に長けた本田正信や有能なオルグ黒田長政らをおいて、西軍の内部をかく乱し、実利を餌に三成からの離反を策してやまない。戦そのものではないが、家康と三成のこうした対照的な性格を持つ人間によるそれぞれの勢力拡大をめぐる死闘こそ、この作品の面白さを成している。

 それだけに、関ケ原の決戦にいたる歴史が、あまりにも家康と三成の性格の違い、そこからくる人間的な葛藤へと狭く一面化されすぎるきらいがなくもないように思う。そのため、秀吉から家康へという歴史の大きな流れをつくりだした根本的な動因がぼやけてしまうように、私にはおもわれる。歴史の専門家でないので正確なところ自信はないが、秀吉による二度にわたる朝鮮出兵という無謀な軍事行動、それに象徴される暴政にたいして増幅する諸大名から民、百姓にいたる憤懣と怒りが、豊臣政権のそれ以上の存続を許さなかった、三成からの諸大名の離反の根底にはそうした根本問題があったといえよう。本作にもそのことはいろんなところで触れられてはいるのだが、歴史を貫く太い動軸としては位置づけられてはいない。そこに不満が残る。

 もう一つは、いうまでもなく関ケ原の合戦そのものの見事な描写である。家康は、味方に加わったが、秀吉の腹心であった福島正則の動向に細心の気を配る。戦いは夜明けとともに霧の中ではじまる。最初、優勢なのは西軍だが、陣営で実際に戦っているのは三成の軍と宇喜田秀家の部隊くらいで、西側の主力、山に陣取った毛利や小早川はいつまでたっても動こうとしない。しびれを切らした三成の再三にわたる督促にもかかわらず、主力部隊の将、毛利などは最後まで「弁当をたべている」との理由で応じようとしない。それどころか、肝心のところで、小早川が家康陣営に駆けつけて参戦、これが勝敗の分かれ目になる。そのあたりの手に汗を握る展開や、西軍最後の奮闘をする宇喜田陣営の戦ぶりなど、大いに読みごたえがある。また、三成が再起を期して単独逃亡し、自らの領地で捉えられ、京、・大坂の市中を引き回されたうえ斬首されるくだりなども、実に見事に描かれている。

 最後になるが、家康、三成の対立の背後に、秀吉の正室であった北政所と秀頼の母である淀君の対立という、女のたたかいがあったことである。家康は北政所を支援し、三成は淀と緊密な関係をたもつ。このような形で戦国の歴史に女性をからませていることも、作品を面白くしている一因である。(2019・2)