坂井律子『<いのち>とがん』(岩波新書、2019・2)

 著者は2016年、NHKの編成局主幹に就任した直後に膵臓がんが発見され、2年間の壮絶な闘病生活を経て、2018年11月26日に58歳の生涯を終えている。教育、医療、福祉などの番組の制作、ディレクターを務めてきた著者は、2度にわたる大手術に耐え、一時は職場復帰を予定するまでに回復したものの、再再度の転移が発見され、回復不能となる。そんななかで、テレビ局の仕事は人に何か伝えるしごとだ、「だとすれば、職場にもどれなくとも、仕事は別のかたちでしたらどうか?」と、親しい友人に勧められて始めたのが本書の執筆であったという。

「もうあまり時間がないかもしれない」と、「はじめに」に書いたのが2018年2月20日である。巻末の「生きるための言葉を探して――あとがきにかえて」の最後に「言葉の力を得て、病気と向き合えたことを改めて感謝しながら、まださらに生きていきたいと思っている」としるした。2018年の11月4日である。その22日後に亡くなっている。出世前診断についての著書もある坂井さんは、医療現場にも詳しい専門家でもある。すい臓がん患者となって、死と向き合い、大手術とその後遺症、抗がん剤の副作用とたたかいつつおこなう患者の側からのレポートは、あくまでも冷静で、客観的な自己観察と考察でつらぬかれている。それだけに、貴重な記録として深い感動を呼ばずにおかない。新聞で紹介されて本書の刊行を知り、一挙に読み終わった。がんではないが、脊髄の障害で10年ほど前に植物人間になりかけ、死と直面し手術で生き延びた私にとって、本書に書かれている体験や提案はその一つひとつが、共感をおぼえ納得できる。

   それにしても膵臓がんとは恐ろしい病気である。医学の進歩で近年では絶望的ではなくなってきたとはいえ、5年後の生存率は10%である。坂井さんの場合は、膵頭十二指腸切除という、すい臓がんの中もでもっとも難しい手術である。膵頭だけでなく、胃の一部、十二指腸全部、胆嚢全部、胆管一部、所属するリンパ節をごっそり切り取るというもので、8時間に及ぶ手術である。それだけに術後の後遺症が並大抵ではない。食べたものが胃から腸にぬけない、膵液が漏れて血管を溶かしてしまう、胆管炎、肺の収縮である。激しい下痢、脱水症状に悩まされ、そのうえ、抗がん剤の副作用がおそってくる。

 著者によれば「手術はスタートライン」にすぎない。「『勘弁してほしい』と願う日々の連続であった」という。しかし「容赦ないすい臓がんが攻撃を繰りだしてくるたびに、そのまましぼんでしまいたくない、という闘争心、というより人生に対する“欲望”が芽生えていったように思う」という。著者が最後まで貫いたこの姿勢に、敬服するほかない.

 患者として学んだことのなかには、がん治療をふくむ医学の驚異的な進歩が挙げられている。そのなかには、すい臓がん患者のなかで「最強最悪」と恐れられている4剤併用の薬のことなどがある。「最悪」とは副作用の激しさである。そこでは、「無慈悲で冷酷なまでの執拗さで、何度も治療を重ね、患者が耐えうる限界をひろげていかねばならない」「われわれが殺したのは、腫瘍か患者か、そのどちらかだった」という医師の言葉が紹介されている。

 私が一番共感を覚えたのは、「患者の声は届いているか」という章で、患者を襲う恐怖と死への怯えのなかで、患者の「心を支える」仕組みについてのレポートである。がん患者が気楽に足を運んでくつろぎ、相談もできるという「マギーズ東京」という施設が紹介されているが、死と直接対峙しなければならない患者にとって、その心をささえる体制がもっともっと充実させられる必要を痛感させられる。この一冊を残して若くして去った坂井さんの冥福を祈る。(2019・2)