小川洋子『琥珀のまたたき』(講談社文庫、2018・12)

 この作者は、現実と非現実との境界のような、ひそやかでいとおしく、落ち着いた世界を描くのを得意とする。それにしても、この作品がつくりだすのは不思議な世界である。

 琥珀とは、オパールや瑪瑙とならぶ宝石の一種で、数千万年前の樹液が地層深くに固まった化石で、その内部に大昔の昆虫や植物を美しく閉じ込めていることもときたまあるという。しかし、この作品では、琥珀は主人公の子どもの名前である。姉がオパール、弟が瑪瑙である。その下にもう一人、幼い妹がいたのだが亡くなっている。母は、末娘の死の衝撃から立ち直れず、魔犬の呪いがこの子を殺したと思い込む。そして、猛犬から子どもたちを守るという理由で、別れた夫が残した山荘に三人の子どもたちをとじこめてしまう。塀から外へ出てはいけない、大きな声を出してはいけない、これが母によって子どもたちに課された「禁止条項」だった。オパール琥珀、瑪瑙という名前も、それまでの名前をやめて、あらたに子どもたちにつけられたものである。

 こうして、琥珀たち三人の外部から完全に遮断された暮らしが始まる。母は、猛犬の襲撃から身を守るためとツルハシで武装して毎日仕事に出て行くが、夜勤で帰ってこない日が多い。子どもたちは、山荘にあった様々な図鑑を眺め、読み、そこに描かれた絵をヒントにいろいろ遊びを考えて、演じる。毎日毎日がこうしてすぎていく。しかし、どんなにあたたかく身をよせあっても、埋められない「空洞」をかかえながら、子どもたちは年を重ね、少しずつ成長し、変わっていく。

 琥珀の左目は、琥珀色をしていて、外界を見るのではなく、琥珀の内面を映し出す。そこには、亡くなった妹の姿がはっきり見える。琥珀は、図鑑の空欄に左目にみえる妹の姿を描き込み、ページを重ねる。そして図鑑のページを指でパラパラとめくると、動画のように生きた妹が再現できる。琥珀はそれを母に見せて喜ばせるために、来る日も来る日もせっせと図鑑に絵を描き続ける。

 何年もへてオパールは、少女から娘に成長していく。そしてある日、隠れて存在すら知られなかった裏木戸を開けて、一人の青年が訪ねてくる。母の「禁止条項」はひそかに破られ、オパールと青年のひそかな交際が始まり、やがてオパールは山荘を出ていく。こうして、三人だけの暮らしは幕を閉じる。閉ざされた空間での子どもたちだけのむつまじく楽しく悲しい暮らしとその破綻、そこで作者は何を語ろうとしているのであろうか?

 物語は、はるかに年を経て、山荘から救出されいまは歳老いてある施設で暮らす琥珀、アンバー老人を、同じ施設に同居するピアニストの私が訪ね、接するなかで、アンバー氏の回想をひきだすという設定になっている。アンバーは、図鑑の空欄に絵を描きつづけ、それらを今も大切に保管している。そしてときたま、この絵を紹介する展示会が開かれる。観客5人がかこむなかで、アンバー氏が図鑑のページをめくると、幼い妹だけでなく、母や姉、弟の姿も浮き出てくる。「琥珀のまたたき」にふさわしい世界である。こんな物語を紡ぎだす作者の感性とやさしい心に、拍手を送りたい。(2019・4)