司馬遼太郎『花神』(上中下、新潮文庫)

 明治維新史のなかで彗星のごとく頭角を現わし、軍神とまで呼ばれた大村益次郎こと、村田蔵六の生涯を描いたのが、この作品である。幕末・維新史で活躍する人物と言えば、西郷や高杉、竜馬、大久保らの名がすぐあがるが、大村益次郎は、これらの人びととはちょっと異質な人物である。西郷らが、尊王攘夷の名のもとに大きな変革の大望をもって志士として身を挺してたたかってきたにのに対し、村田は、長州藩の村医者で、大阪に出て緒方洪庵の塾で蘭学を学んだ一介の蘭学者にすぎなかった。蘭学者であるから、身につけたオランダ語によって医学以外の知識、村田の場合は主として軍事知識をも学ぶ機会があった。その知識によって、最初、開明的な君主のいた四国の宇和島藩に取り立てられ、軍事関係の書籍の翻訳やペリー来航直後に米軍艦をモデルにした軍艦の建造に当たる。思想家でも政治家でもなく、いわば技術者である。

 そのうえ、村田は、若いとき緒方塾で塾頭まで勤めながら、医者である父の要請を受けて帰村して流行らぬ村医者になっているように、出世とか世間的な成功にほとんど関心を持たない人間である。しかも、村人が「お暑うございます」と挨拶しても、「夏は暑いのが当たり前です」と、人の心を逆なでするような言葉を返す奇人、対人関係に不器用な人物である。この男が、その軍事知識ゆえに幕府にとりたてられ、さらに幕府を振って長州藩に仕えるようになり、幕府による第二次長州征伐に際して、軍事指揮官として幕府軍を敗走させるうえで抜きんでた軍功をあげる。そして、鳥羽伏見の戦いから、無血開城後の江戸に跋扈する彰義隊の撃滅戦を指導し、さらに戊辰戦争の官軍側の総指揮者として、天才的な力を発揮するにいたる。平時なら絶対にありえない、激動の時代ならではの奇跡ともいえよう。一人の平凡な田舎医師が、どうしてこのような道を歩み、絶頂をきわめるにいたったのか、その謎を事実に基づいて検証しようというのが、この作品の主眼である。

 作者によれば、この男の才能に着目し起用した最大の功績者は、桂小五郎木戸孝允)だったという。木戸は晩年次のように語っている。「維新は初丑(ペリー来航の嘉永6年)いらい、無数の有志の屍のうえに出できたった。しかしながら、最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就はむずかしかったにちがいない」と。大村は、維新の大変革の仕上げ人だったいうのである。ここには、技術ないし技術者が社会変革において果たす役割、という問題があるというのが作者の考えのようである。

 司馬氏の史観によれば、革命には三つの段階があり、それぞれ時の求める傑出した人物が登場するという。最初にまず思想家が現れて非業の死をとげる。例えば吉田松陰である。次いで戦略家の時代になる。高杉晋作西郷隆盛のような存在である。そして三番目に登場するのが、技術者であるという。村田のばあい軍事技術である。哲学とか政治戦略ではなく、先人たちがそれらによって準備しなしとげた事業を技術的にしあげる役割である。村田は、哲学者でも思想家でも、戦略家でもなかった。しかし、西郷も高杉も持ち合わせなかった軍事技術をもって、維新政府への抵抗をうちくだき、新政府の基盤をかためる仕事をなしとげたというのである。歴史のどの時期にどのような人間が必要とされるかという興味深い問題提起である。

 村田は、シーボルトの娘で日本最初の女性産科医となるオイネと生涯にわたる交流があった。京都で刺客に襲われて重傷を負った村田のもとに、横浜から駆けつけて看病し、最期をみとったのもイネである。宇和島藩で村田がイネに蘭学を教えていらいの二人の交流が、本作品のほのぼのとさせられる読みどころともなっている。(2019・4)