岡田恵美子『言葉の国イランと私』(平凡社、2019・3)

 著者は、東京外国語大学教授を経て、現在、日本イラン文化交流協会会長。ペルシャ語ペルシャ文学の専門家で、1932年生まれというから現在86歳くらいか。

 1958年に東京日本橋で開かれた「イラク・イラン発掘展」を訪れた著者は、そこで砂漠の砂に描かれたカンナ屑を散らしたような不思議な文字に出会う。たまたまそこに居合わせたのが考古学者の増田精一氏で、「あれはペルシャ文字だよ」「日本ではまだ誰も読める人はいない」との説明をうける。当時すでに中学校の国語の教師を務めて居た岡田は、これを機にペルシャ語ペルシャ文化に興味をいだくようになり、増田氏や騎馬民族説で著名な考古学者の江上波夫氏らの援助も受けて、ペルシャ語習得に挑戦する。やがてイランへの留学を志してあれこれ努力した結果、直接イラン国王へ手紙を書く。戦後間もないころで、日本人が海外へ出ることがまだ極めてまれな時代である。幸い、手紙はイラン国王の目に留まり、イランとしても初めての女性の国費留学生として、招聘される。1963年のことである。こうして、まったくなじみのないイスラム国に単身のりこみ、テヘラン大学で4年間の留学生活を送る。その経緯が、本書の前半をしめるが、これが大変興味深く、面白く読める。

 当時の日本人にとって、イランはなじみの薄い国、イスラム圏にそくするまったく未知の国である。もちろんペルシャが古代から長い歴史と伝統をもち、その文化の一端が日本に伝わり、奈良時代に建てられた正倉院に保管されていることは周知のところである。しかし、戦後、この国と日本の交流は、ごくごく少数の人びとにかぎられ、国民の目がこの国にむけられるのは、日本が1960年代の高度経済成長期をむかえ、イランから石油資源が大量に輸入されるようになってからであった。そんな時代に、30歳を過ぎた一介の中学校の女教師が、何のつても知己もいないこの国にひとりでのりこむのだから、冒険に満ちたその一歩一歩が、読者の強い関心をひかないはずがない。その旺盛な好奇心と、勇気、決断力がどこから由来するのか、著者は「自分は誰か」を問うてやまなかった自らの幼少時にまでさかのぼって説明してくれる。もちろん、本人の特異な個性もあろう。同時に、それを許し、応援した両親や周囲の人たちにも、なみなみならぬ知性と寛容、人間の自由を本当の意味で尊重する民度の高さを感じさせずにおかない。

 留学先のテヘラン大学での生活も興味深い。女性に初めて門戸を開いたテヘラン大学の同級生で女性は、岡田一人である。ペルシャ古典文学の講義は、「まだ明けやらぬ空のもと 勇者は重き武具をつけ 背にはあまたの矢を負いて 小山とまごう馬に乗る」等、詩の朗読で始まる。イランは、詩の国、言葉の国である。イラン人は、よくしゃべる。そして日常会話の中で、古代からの詩がひんぱんに引用される。おしゃべりなイラン人は、大家族で暮らし、家族、友人を大切にし、相手を傷つけないよう細やかな気配りをする人たちである。

 4年間のテヘランでの勉学を終えた岡田は、女性ではじめての学位を取得して帰国する。おりしも高度経済成長期でイランとの経済関係も活発になり、ペルシャ語の需要もおびただしく、岡田は、各界から引っ張りだこになる。大学にペルシャ講座が開設されると、岡田はそこへ招請される。こうして著者は、日本におけるペルシャ語ペルシャ文学研究の草分けとして、今日に至る。本書の後半は、イラン人の衣食住について、また、豊かなペルシャ文学、文献からの箴言の紹介となっている。「心は憎しみを生まない。憎しみを生むのはいつも言葉だ』「古い楽器でも新しい歌は弾ける」等など。(2019・5)