司馬遼太郎『世に棲む日日』(1~4巻、文春文庫)

 坂本龍馬を描いた『竜馬がゆく』、大村益次郎の生涯をとりあげた『花神』を読んだ以上どうしても避けて通るわけにいかないのが、吉田松陰高杉晋作を主人公にしたこの作品である。表題は、28歳の若さで生涯をおえた晋作の辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」に、最期をみとった望東尼が付け足した「すみなすものは こころなりけり」に由来するという。

 吉田松陰は、1853年、ぺりーが率いてきた米艦隊に単身のりこみ、国禁を犯してアメリカへの渡航を願い出るが、断られ、幕府に捉えられて、獄舎につながれるも、松下村塾を通じて多くの若者に精神的、思想的感化を及ぼし、その中から高杉晋作はじめ、幕末、維新の変革をになう多くの志士を輩出させた。その尊王攘夷・倒幕の思想は、長州藩をして時代の先端を走る先覚者の役割をになわせるうえで、決定的ともいえる力を発揮した。そのため、戦前の支配層によって「国体」思想の権化のように喧伝され、戦後はあまり顧みる人もいなくなったようにおもう。幕末・維新に活躍した人間を多数描いてきた作者も、松陰には筆を染めたことがなく、この作品ではじめて向きあったようである。松陰にも松下村塾にもまともにむきあったことのない筆者のばあい、その生い立ちから、各地をまわる修行、勉学や、松下村塾の実相について、つぶさに知るのは本作品を通じて初めてである。それだけに、その印象は強烈というほかない。

 貧しい下級武士の家に生まれた松陰は、叔父の玉木文之進という過激な保守思想家から尋常ならざるきびしい教育をうけ、一切の私心を捨てて大義につくす純真・過激な青年に成長する。江戸に出て佐久間象山はじめ当時の秀でた知識人に学ぶとともに、脱藩して東北、特に水戸へ赴き、尊王大義をかかげる水戸学を学び、さらに国学へとすすみ、そのなかで尊王攘夷思想を研ぎ澄ましていく。それは、欧米の外圧に屈せず、一君万民のもとで国民の力を結集し国の独立と発展を展望する革命思想であった。安政の大獄で捕らわれの身として再度江戸に送られ、29歳で刑死するまでの生涯はごくごく短い。しかし、その人柄と思想の及ぼした影響は計り知れない。作者は、松陰を「思想の人」、「思想に殉じた人」として描いている。

 藩の上士の家に生まれながらこの松陰を師と仰ぎ、その思想を実践に移し、革命家として生きたのが高杉晋作である。攘夷を実践するために、イギリスの公使館に忍び込んでこれを焼き討ちする挙に出るなど、その挙動は極端に走り、藩の高級官吏の子弟としては、異例の風雲児である。やがて、蛤ご門の変で朝敵とされ幕府による長州征伐がおこなわれるとともに、下関を通る外国艦船を砲撃した報復として米英仏オランダの四か国による馬関戦争に直面する。ここで晋作の革命家、戦略家としての真価が発揮される。その一つが、奇兵隊の創設である。身分階級の違いを超えて結束する軍隊の結成は、当時の封建社会では奇想天外というべき壮挙であり、いわば国民軍に道を開いたものと言えよう。米英仏オランダ軍の攻撃で甚大な被害を出した藩の代表として四国と講話交渉でわたりあう。  

 同時に、たった一隻の小型軍艦を率いて夜間、大鑑を連ねる幕府海軍にたちむかい、これを撃破するなど、文字通り暴れ放題の活躍である。しかも、長州藩の勝利が確実になると、藩の権力を握るのではなく、さっと身をかわして単身、イギリスへの渡航、留学を企て、長崎のイギリス商人グラバーに交渉するなど、日本の将来を見越した大胆な行動に出る。まさに破格な行動力をいかんなく発揮するのである。

 残念ながら、肺結核に犯されて明治維新を目の前に生涯を閉じるが、これほどのスケールの大きな人物は、土佐の竜馬くらいしかみあたらない。ちなみに後に維新政府の中核を担う伊藤博文井上聞多などは、当時、晋作の足元にも及ばぬ存在であった。「晋作は思想的体質でなく、直観力の優れた現実家なのである」というのが、作者の晋作観である。(2019・5)