レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(寺尾隆吉訳、水声社)

 作者は、現在のキューバを代表する作家で、1955年生れ。2009年に発表された本作は、邦訳でB5判700ページ近くにおよぶ超大作である。ロシア革命の指導者の一人で革命後スターリンとの政争に敗れて失脚して、祖国を追われ、1940年8月20日にスターリンが送り込んだ刺客によって亡命先のメキシコで暗殺されたトロツキーの生涯を丹念に描いている。同時に、本作がユニークなのは、トロツキーの暗殺に直接手をくだした犯人、ラモン・メルカデールにもう一つの焦点を当てていることである。ラモンは、スペイン人民戦線でたたかうスペインのカタルーニア出身のまじめな青年共産党員だが、スターリンの手でソ連共産党特殊工作員にしたてられて、共産主義という大義を信じてトロツキー暗殺の下手人となり、とらえられて20年におよぶ過酷な獄中生活を送る。そして、刑期を終えてソ連に帰還し、スターリン死後にまで生きつづける。そのおぞましく悲惨な生涯が、トロツキーのそれと並行しながら、克明に描かれている。

 本作にはさらにもう一人、作者の分身ともいえるキューバの作家が登場する。たまたまハバナの浜辺で知り合った老人から、晩年をキューバで過ごしたラモンの物語を克明に聞き取り、ラモンとトロツキーの生涯を書き残す役を担う人物、イバンである。ソビエト社会主義の体制下にあったキューバで、ハバナ大学を卒業して新進作家として有望視されながら、体制に迎合しない作品を書いて、体制から排除され抑圧され、作家の夢もあきらめて、獣医雑誌の校正者として夢も希望もない日々を送る人物である。

 トロツキーとラモン、イバンという3人の人物は、共通点は三人とも愛犬家であるという一点しかないのだが、いずれもスターリンという悪魔によって呼びこまれた運命に翻弄され、失意と絶望のうちにぞっとするようなおぞましい半生を余儀なくされる。その生きざまは、耐えがたく重苦しくてなんともいえない圧迫感を読後に味わわせずにおかない。

 それにしても、スターリンと彼に盲従した体制が残した残虐な傷跡はなまなましい。トロツキーは、中央アジアのアルマ・アタからトルコに追放され、その後スターリンの執拗な追跡と迫害を逃れて、フランス、スイス、ノルウェーへ、そして最後にメキシコに逃れるしかなかった。その間、同志は離反するかスターリンによって殺され、4人の息子娘たちもソ連の内外で次々に暗殺され、処刑される。絶望と失意のうちに希望のない反逆の試みもむなしく、次第に追い詰められていく。

 トロツキーを追い詰め、手にかけるラモンの生涯も残酷でいかにもむなしい。虚偽とでっち上げにぬりかためられた“信念”に忠実に従い、本来のラモンとは無縁の酷薄な特殊工作員として作り上げられた人間を演じ続けるしかなかった。そして、現代キューバの作家イバンは、このラモンやトロツキーの生きざまを自分のそれと重ね、そこにみずからが置かれた立ち位置を改めて確認せざるをえなかったのである。

 作中のイバンが絶好のネタを手に入れながらなかなか書けなかったのは、何よりも恐怖のためであったという。作者パドゥ―ラがこの作品に着手するにあたって直面したのも、自由な言論を抑圧するソ連型の体制への恐怖であった。作者が執筆にとりかかれるようになるのは、1991年のソ連崩壊とそれを機にしたキューバでの変化によってである。同時に、本書のような作品を書いた作者が現にキューバに在住し活動しているという事実は、キューバをふくめてスターリン時代の悪夢から社会が立ち直りつつあることの証左ではなかろうか。パドゥ―ラとともに、そこに希望を見出したい。(2019・6)