司馬遼太郎『翔ぶが如く』(文春文庫、全10冊)

 明治維新後、成立したばかりの太政官政府は、1872年、最大の課題であった欧米諸国との不平等条約是正のため岩倉具視を団長とする大使節団を欧米に派遣する。その間の留守政府を預かったのが西郷隆盛江藤新平らであった。西郷らは、維新政府による廃藩置県秩禄処分廃刀令などによって存在基盤を奪われた旧士族の強い不満と政府への怨嗟をかわすために征韓論を唱え、太政大臣三条実朝の同意のもとに天皇の勅許まで得る。ところが、翌年帰国し内治優先を唱える大久保利通らの強硬な反対に遭い、征韓論は葬り去られる。これを不服とした西郷隆盛らは太政官政府から身を引き、下野し、薩摩へひきあげる。太政官政府権力の中心を構成していたのは、できたばかりの近衛師団と警視庁輩下の警察官だが、その多くは西郷のイニシアティブで送り込まれた薩摩人からなっていた。西郷の下野とともに、これらの士官が、西郷に同調して一方的に任を離れ薩摩へ帰ってしまう。つまり権力の中心をなしていた軍事力の大半が、政府から去って薩摩に集中することになる。しかも、当時薩摩は、旧藩主島津久光の影響下にあって明治政府の力の及ばぬ事実上独立国の様相を呈していた。こうして、全国に満ちる太政官政府への不満と憤りは、西郷と西郷が率いる薩摩へと集まることになる。そうした背景のもと、西郷らは1878年、西南戦争を起こして太政官政府軍と戦い自滅にいたる。その全過程を克明に描きだしたのが、この大長編小説である。

 全編を通読して、明治維新で生まれた新しい政権をとりまく不安定な日本の政情とその動きが手に取るようによくわかったというのが何よりの感想である。そのなかでも、とくに勉強になったことがいくつかある。その一つは、全国で300万人と言われる旧武士階級の新政府にたいするやり場のない不満と怒りの強さである。サムライという身分を奪われたばかりか、徴兵令によって集められた農民を主力とする鎮台兵が新国家の軍事力として組織されるにおよんで、存在意義そのものが失われていったのである。唯一、維新政府の手がおよばなかった薩摩藩にだけ、武士階級が生き残っている。明治維新の成就に貢献し陸軍大将の肩書をもつ西郷に、そのシンボルとして期待が集まる。佐賀の乱萩の乱、熊本新風連の乱とつづく反政府暴動につづいて、西郷と薩摩の決起をのぞむ声が全国に広がっていく。西郷が立てば全国の旧士族がこれに続き、太政官政府などひとたまりもないと、西南戦争を主導した桐野利良や篠原国幹が考えたとしても不思議はなかった。

 もうひとつは、明治国家と天皇の絶対的権威がどのようにして作り上げられていったかということである。明治のこの時期、政府はもとより天皇の権威は極め微弱であった。天皇の勅使がわざわざ鹿児島まで出向いても、島津久光は病気を理由に会おうともしないといった事実に、そのことが端的に示されている。太政官政府といっても、地方では薩長の私的機関くらいにしか思われていない。その中心にいた大久保らが、政令を通し、政府の施策を実行するのに、ことあるごとに天皇をもちだし、その権威をふりかざすしかなかった。西南戦争で強靭な薩摩兵のまえに怖気づく鎮台兵を叱咤するにも、天皇の権威を振りかざすしか手がない。こうして、天皇とその権威が政府の手で人為的に引き上げられ、肥大化され、その権威にすがって、政治がおこなわれる。絶対主義的天皇制がこうして明治政府自身の手で造り上げられていくのである。

 最後に、この大作をとおして、最大の課題は西郷とは何者かということである。この問題にたいする答えが、ついにわからないままで終わっている。維新までの西郷については、おおよそその輪郭は明らかである。しかし、征韓論に敗れて下野して以降の西郷については、ほとんどなにもわからない。西南戦争の全局面を通して、西郷はほとんど顔を表さない。軍議にも作戦指導にも出ないばかりか、何を考え、何を求めているのかさっぱり定かでないのである。西郷が書いたものを残さなかったということもあるが、維新後にどのような国家をつくるのか、西郷自身戦略も、願望も定かでなかったのでは、と思われる。すべてを桐野や篠原らにゆだねて、みずからはただ死に場所のみを求めていたのではなかろうかとも、推測せざるを得ない。(2019・8)