平野啓一郎『ある男』(文芸春秋社、2018・9)

 弁護士の城戸は、何年か前に離婚の調停をしたことのある里枝さんという女性から折りいった相談をもちかけられる。里枝は、離婚後、宮崎市の近くの小さな街にある実家に一人の男の子をつれてもどり、家業の文房具店を手伝っていた。しばらくして、そこに画具を買いに時々訪れる谷口大介と名乗る男と親しくなり、結婚、花という女児ももうけて、何年かを幸せに暮らしていた。大介は、自らの生い立ちや経歴を詳しく語っていた。色々なトラブルがあって群馬県で旅館を営んでいた家族とは疎遠になり、あれこれの仕事に就いたあと、たまたま行き着いた九州の小さな街で、林業会社に職を得たという。そこで、伐採などの作業に従事していた。水彩画が趣味で、特段優れているわけではないが、落ち着いた人柄を感じさせる風景画などを描いていた。

 ところが、運の悪いことに大介は、みずから伐採した材木の下敷きになるという事故で突然死去してしまった。残された里枝は、大介とは疎遠になっていたにせよ家族には知らせなければとの義務感から、連絡を取る。訃報を知って大介の兄が宮崎まで駆けつける。ところが意外にも、兄は里枝の家の仏壇に飾られた故人の写真をみて、これは大介ではない、まったくの別人だと断言する。

 天地がひっくり返るほど驚いたのは、里枝である。一体自分が結婚し、子どもまでもうけた相手は、それではいったい誰だったのか? 夫が克明に語っていた自分の生い立ちや家族のこと、家族との間にあったいざこざとそこから逃れた経緯などが、すべてまったく別人のそれだったとすれば、それらをふくめて信用し、その人格、人間性に親しみ、接してきた自分の愛情とはそもそもいったいなんだったのか?亡くなった自分の夫は、そもそもなぜ谷口大介と偽り、自分の本当の正体を隠し続けなければならなかったのか? 謎は深まるばかりである。里枝がそこで思いついたのが、かつて離婚調停で親切に応対してくれた城戸弁護士への相談である。

里枝にそこはかとなく好意を抱いていた城戸は、里枝からの訴えにこたえてわざわざ宮崎まで出向いて、くわしい事情を聴取し、谷口大介を名乗っていた男の正体の追跡を始める。大介の兄はもとより、大介の元恋人だったという女性など、わずかなてがかりをたどる城戸の探索は難航をきわめるのだが、しだいに、事の全容が姿をあらわしていく。そこには、自分の戸籍から、生い立ち、家族関係などをすべて秘匿せずにはおれない、生まれつき不幸を背負った人々の存在が浮かび上がってくる。また、そういう人々の間で、他人の戸籍との売買を仲介する業者の存在も明らかになる。里枝の夫が、不幸な出自からみじめな少年時代を送り、まともな暮しを手に入れるためには他人の戸籍を取得して、別人として生きるしかなかったことも、次第に明らかになってくる。そして、谷口大介を名乗って里枝と過ごした数年間が、この男の全人生のなかで、ただ一時平穏のうちに暮らすことのできた幸せな時間だったことが判明する。

 城戸は、一人息子と妻と平穏に暮らす自分の家庭にも、なにかと隙間風が吹いたり、妻との間に微妙な感覚のずれが生じたりすることにも重ねながら、こういう不幸な人びとの存在とその人々をめぐって愛憎が複雑に織りなす様相に思いを致す。そして、谷口大介を演じた男にも、憎むことのできない親密感を抱いている自分に気づく。

 作者は自分のブログで、「小説家になってから今年で20年になりますが、『ある男』は、今僕が感じていることを最もよく表現できた作品になっていると思っています。例によって『私とは何か』という問いがあり、死生観が掘り下げられていますが、最大のテーマは愛です」と語っている。推理小説的な展開を楽しみながら、人間存在のありかた、愛情とは何かについて考えさせられる作品である。