篠田節子『肖像彫刻家』(新潮社、2019・3)

 「二つ歳上の姉に、多摩市にある霊園に連れていかれ、墓石の前で土下座した。

『ほら、五十面下げて自分がどこで何してたか、ちゃんと報告して謝るんだよ』

凍るような風の吹きすさぶ高台に『高山家の墓』がある。姉の薫に後頭部を押され、正道は白御影石の上に、崩れるように膝をついていた」この作品の書き出しである。

 主人公の高山正道は、名のある私立の芸大の彫刻科を卒業して、抽象彫刻でいくつかの賞も受賞し、それなりに評価もされたが、生活がなりたたない。経済的には教師の妻に依存しきっていた。しかし、ついにあいそをつかした妻は離婚を申し出て、高校生になる息子を連れて家を出る。年老いた父母のもとで先も見えない日々をおくるが、そんなおりに、イタリアで肖像彫刻家の巨匠、マリオ・プッチ師について成功している先輩から声がかかり、イタリアに渡り、同じ先生について歴史と伝統のある肖像彫刻の修業をする。だが、生来の器用さが買われて、なにかと仕事にはありつくものの、なかなか目が出ない。イタリアへ出発する前に、父からは「モノになるまで帰ってくるな。一切、連絡も寄越すな」と言い渡されている。その言葉を守って一通の手紙も出さないまま、8年後にようやく帰国する。そこで、父母はすでに鬼籍に入っていることを知る。冒頭の一節は、ぶっきらぼうで男勝りの姉に叱咤され、両親の墓前にぬかずくシーンである。

 実家をたたんで姉と遺産を分けた正道は、その資金で山梨県の八ケ岳の山麓に工房をかまえ、インターネットで自己紹介をしながら注文をよびかける。隣には大家で人のいい菱川夫妻が住んでいて、野菜や煮物などを親切に届けてくれる。こうして正道の日本での肖像彫刻家としての生活が始まる。

 最初に注文が来たのは、地元の名刹、回向院からである。有形文化財に指定されている秘仏、雪姫の全身像をつくってほしいとの注文である。雪姫は同寺院の秘仏として普段は公開せず、何年に一回、特別の日にだけ披露するという。この秘仏の代わりに正道の彫った全身像を公開し、観光客などを呼びこもうというのである。そこで、値段の相談である。正道の肖像彫刻は、世界的な彫刻家から直々に伝授された技術を駆使した本格的な肖像彫刻である。制作に何カ月もかけて、粘土で原型をつくり、これに合成樹脂をはって型をとり、さらに銅を流し込んでしあげるという複雑な工程をとる。当然、一体何百万円ということになる。ところが、現在では3Dで立体を造形する技術が発達し、写真などを素材に実物そっくりの像をきわめて安価に作ることが可能である。そんな業界事情のなかで、お客との折衝もなかなかの一仕事となる。

 ようやく仕上がった雪姫は、ただ形だけのものではなく、正道によって魂のこもった全身像となる。像は、お寺の思惑通り檀家や観光客の注目をあつめるが、そのうち妙な噂がひろがっていく。夜中にこの像が、一人で歩き回るというのである。さらに、この寺院が、雪姫の本体を秘密裏に横流し業者を通じて海外に売却し、お寺の修復費などにあてているという事実も、正道の耳に入ってくる。こうして、正道の仕事は、寺院経営をめぐる生臭い世界に身を置くことになる。

 次に、口は悪いが人のいい姉の依頼で、両親の座像を造る。注文がなくて困っているだろうとの姉の配慮によるものである。これも立派に仕上がり、姉の家の床の間に据えられて、近所でも評判になっていく。そしてやがて、姉が気づくのは、坐像の父母が夜中に夫婦喧嘩をはじめるという事実である。これを聞きつけた正道は、父母を離して置くようにすすめる。こんな、現実を超えたユーモラスな話が、いくつか続く。芸術家にとって、この世はいかに生きにくいかというお話である。作者らしいとかといえば、そうともいえるし、そうでもないともいえよう。(2019・8)