平野啓一郎『マチネの終わりに』(文春文庫)

 芥川賞受賞作家であることは知っていたが、自分の娘たちより若いこの作者の作品をこれまで読んだことがなかった。最近新聞の書評欄で「ある男」というごく最近書かれた作品についての論評を読み、興味を惹かれ読んでみた。若くして事故で亡くなった夫の身元が生前本人の語っていたものと全然違っていたという、ミステリー仕立ての作品であるが、なかなかの書き手だと感心して、他の作品にも目をとおしてみようかとおもって本作を手にした次第である。2015~16年に毎日新聞に連載されて評判になり、このほど石田ゆり子主演で映画化され、この11月に公開されることを知ったのは、作品を読んでいる途中であった。

 感想をひとことでいうなら、近来体験したことのないすばらしい恋愛小説というにつきる。天才的なクラシック・ギター奏者である38歳の蒔野聡史と、ルーマニア出身の著名な映画監督イェルコ・ソリッチと長崎出身の被爆者の女性との間に生まれ、フランスの通信社に勤めて戦火の絶えないイラクを活動舞台にする美しく知的な小峰洋子との運命的な出会いと、その熱烈な恋の破綻、そしてその後二人が歩む別々の道と時間の経過‐--。それらをつうじて、人間の運命のはかなさにとどまらず、男女を結びつける愛とは何か、結婚とは何か、仕事や職業とどうむきあうべきかなど、いくつもの大切な問題に切り込んでいく。そこには、作者のなみなみならぬ知的探求と思索のあとをもみることができる。

 二人の出会いは、東京での蒔野の演奏会とそのあとのパーティーである。蒔野の演奏のすばらしさに心底感動する洋子は、自らの才能をひけらかすどころか、謙虚にかつユーモラスにふるまう蒔野の率直でやさしい人柄にまたたくまに惹きこまれていく。蒔野は蒔野で、イラクの人々や難民に身を寄せる洋子の温かい心と輝く知性、美貌にふれて、これまでの人生で一度も体験したことのない衝撃とともに一瞬にしてその魅力のとりこになる。二人が二度目に会うのは、蒔野がスペインでの公演をまえにパリにたちよってであった。二人は、またたくまに親密の度を深めていく。そして、蒔野のスペイン公演の後、パリでのマチネと三度目のデートの約束をする。

 ところが、約束のその日洋子はマチネにも姿をあらわさなかった。公演のあと、待ち合わせの場所にも来ないので、蒔野は洋子の自宅を訪ねる。そこで蒔野が目にしたのは、テロの恐怖をから命からがらパリへ逃れてきたイラクでの洋子の助手、ジャリーラが、身柄を拘束されてイラクへ送り返されかねないのを救出するため必死になっている洋子の姿であった。蒔野はジャリーラと洋子をまえに、ヴィラ・ロボスの<ブラジル民謡組曲>から<カヴォット・ショーロ>を弾く。それはそれは、すばらしい演奏であった。

 連日スカイプで長時間話し合う二人がその次に会う約束をしたのは、東京でであった。それはすでに結婚を前提に、長崎に住む洋子の母親を二人でたずねることも合意済みであった。洋子には、実は、アメリカに住む婚約者のリチャードがいた。婚約解消をもとめる洋子に、リチャードがどうしても納得しないのも無理からぬことではあった。その交渉は容易に進展しなかったが、どんな困難をも乗り超えて一緒になろうという二人の決意に変わりはなかった。

 ところが、ここで運命のいたずらか、宿命か、東京でのふたりの関係は、突然、思わぬ破綻へとむかう。おりしも、洋子はイラクのホテルでのテロ攻撃であわや命を失いかねない事態に遭遇した体験からPTSDの症状に苦しみ、冷静な判断ができかねる状態に置かれていた。蒔野も、自己の能力への自信の揺らぎから深刻なスランプを体験していたさなかであった。結局、ふたりの逢瀬は、東京とパリでの3回きりであった。しかし、その後、まったく違った環境に生きつつも、たがいへの思いといとしい気持ちは、心の底で変わることなく生き続けた。その愛は、肯定すべきか否定されるべきか、そんな解き得ない問いも、おりにふれて二人の心を乱したり、悩ませたりもする。答えはないのだが、それらは深い余韻となって読む人の胸にとどまる。(2019・9)