ギュスターヴ・フローべーール『ボヴァリー夫人』(芳川泰久訳、新潮文庫)

 だれにとっても、一度はと思いながらなかなか目を通す機会がなかった名作がある。フローベールの『ボヴァリー夫人』が、わたしにとってそうした作品の一つであった。書店でもよく目にするのだが、なんとなく敬遠してこんにちにいたっていた。さきごろ、同じ作家の『サラムボー』という作品に目を通したのを機会に、思い切って読んでみることにした。1857年に出版されたこの作品は、北フランスのルーアンからほど遠くない田舎を舞台に、医師のシャルル・ボヴァリーのもとに嫁いだエンマという女性の奔放な生き方とその破局を描いている。作者の本格的な作品としてははじめてのものであったが、公序良俗に反するとの理由で告訴され、裁判沙汰になったこともあって、大反響を呼んで、フローベールの作家としての地位を確たるものにした作品である。

 エンマは農家の出身だが、修道院に付属する寄宿学校での同世代の少女たちとの交流や読書などをつうじて、多感で夢多く向上心とロマンチックな志向をもつ魅力的な女性として成長した。パリの生活や貴族の社交会にあこがれ、文学や詩、音楽などにもつよい興味と関心をいだく、才能にも恵まれた個性豊かな人間である。このエンマが嫁いだシャルルは、真面目一方の田舎医者であり、毎日深夜まで往診にかけまわるものの、これといった才能も趣味もなく凡庸で、平凡、退屈な男である。妻を心から愛しているものの、その心にひそむ願望や趣向、あるいは虚栄にはまったく無関心である。

 こうしたシャルルとの結婚生活は、エンマにとって退屈で単調、面白くなく、次第にうんざりし、嫌悪すべきものにかわっていく。たまたま招かれて近くに住む貴族の夜会に出席し、その優雅であでやかな雰囲気に触れ、夢のような一夜を過ごす。そのような体験も、エンマの日常生活の単調さ、退屈、無意味さに拍車をかけることになる。このあたりの、心理描写はリアルで鮮やか、お見事というほかない。

そんなある日、エンマは近くのレストランで法律事務所の助手をしている青年、レオンに会う。知識もあり、才覚もあるレオンにエンマはたちまち夢中になり、二人の仲はひそやかに緊密なものになっていく。しかし、二人の関係をつづけることに危険を察知したレオンは、突然彼女のもとを去る。

 再び単調で孤独な日常にもどったエンマは、こんどは、頭もよく女性関係も盛んな34歳の世慣れた男性、ロドルフに熱を上げるようになる。ロドルフは、半ば遊びの気持ちも持ちながら、二人は次第に深みにはまっていく。やがて、もはや夫との退屈な生活に耐えがたくなったエンマは、ロドルフに駆け落ちをもちかけ、決行を迫る。逃避行に出発する約束の日、ロドルフは現れず、姿をくらましてしまう。狂乱状態になって体調も崩すエンマを、シャルルは神経症という診断をくだして見守る。

 ようやく健康を回復したエンマのもとに、再びレオンが姿をあらわし、二人の関係は前にもまして深いものになっていく。しかし、エンマの厚情にレオンはへきえきしだし、エンマもまたそうしたレオンに物足りなさを感じるようになり、二人の間に微妙なみぞがひろがってゆく。その一方、エンマは、出入りの商人の口車にのせられて、恋人への貢物をはじめ多大な浪費を重ね、夫からまかされている家計に大赤字をつくり、借金の金利もかさみ、破産状態に追い込まれていく。そしてついに、すべての動産さしおさえの通知が舞い込むに至る。絶体絶命のエンマは、あらゆるつてを頼って金策に奔走し、最後は、かつての恋人ロドルフ、そしてレオンに泣きつくが、冷たく突き放される。追い詰められたエンマにとって、最後にできるのは、自らの命を絶つことだけである。親しくしていた薬屋から手に入れたヒ素をあおるエンマは、シャルルが泣きくずれるなか短い生涯を終える。エンマ破局の描写も実に迫力があり、読む者の心に迫る。自立しようとする女性に不倫という道しかなかったのか、エンマの破局はこの時代が直面した新しい問題を提起しているのではないだろうか。(2020・1)