北杜夫『夜と霧の隅で』他(全集第2巻、新潮社、1977年)

 同じ作家の代表作である『楡家の人々』にとりくむ機会があったので、作者の出世作芥川賞を受賞したこの作品も読んでみようという気になった。1960年に発表されている。精神科医でもあった作者が全集の「年報9」に記しているが、「この題材は精神科医としての私が一度は書かなければならぬものであった」という。というのは、この作品はナチス支配下のドイツの精神病院を舞台に、精神障害者にたいする断種から安死術、さらに集団で強制収容所に送り込んで抹殺するというおぞましい犯罪現場で、犠牲になっていく患者たちとむきあう精神科医たちを描いているからである。

 ナチスは、1939年末に、精神病患者に対する最初の安死術をおこなった。これは内外から厳しい非難を受けたため、ひとたび中止されたが、1941年になってベルリンで秘密の専門家会議がひらかれ、長期療養または不治の精神病患者を極秘のうちに処置することがきめられ、各地の精神病院から多くの患者が隠密のうちに連れ去られるようになるのである。この問題は、ナチスによるアウシュビッツ強制収容所などでのユダヤ人、共産主義者やジプシーの大量虐殺とくらべて、研究の面でも文献がすくなく文学作品などでとりあげられることもほとんどないまま見過ごされてきたと、作者は言う。その後約半世紀をへているので、今日、事態は変化しているであろうが、基本的なところでは作者の指摘は変わっていないといえよう。それだけに、この題材に正面からとりくんだ作者の医師としての姿勢に敬意を表さずにおれない。政治・思想問題を正面にすえたという点で、作者の作品としては異例であるばかりか、執筆にあたってはずいぶん苦労したようである。

 舞台となっているドイツの州立病院では、多くの統合失調症の患者をかかえて、医師たちの忍耐強い努力が続けられている。ナチスの決定を伝えられて、院長は病に倒れ、抗議も反対もできない医師たちは、それぞれのやりかたで患者たちが連れ去られる日をむかえる。臨床より研究を重視してきたある医師は、その姿勢を一変させ、不治の患者たちにこれまでの療法をより徹底して試みることによって、万一の回復にかけ、ある女性の医師は、昼休みも惜しんで長期療養の女性患者によりそうなど。もちろん、ナチスの措置に賛同の意をあらわにする医師もいないわけではない。この病院に、たまたま高島という日本人医師が入院している。ドイツへ留学中に結婚した相手がユダヤ人だったために、強制収容される。日本人の妻であると訴えて奪還を当局にせまるなかで、精神に異常をきたして入院しているのだ。妻の安否をなによりも気遣う高島にたいして、この女性が高島のいない自宅で自死したことを、医師は高島にどう伝えるか悩む。

 作者は一人ひとりの医師たちの内面に入り込むことをしないで、その行動を淡々と描いていくのだが、そのことによって不治の病に苦しむ患者たちにたいする医師たちの人間的な苦悩が読む人に伝わってくる。昨今の神奈川の精神障碍者施設での集団殺人事件のように、ナチス張りの優生思想が若者の一部をとらえる現実を前にして、このような作品がもっともっと評価され、読まれるに値することを強く主張したい。

なお、この全集2巻には、ほかに、サケマス漁船にのりこむ少年を描いた「はるかな国、遠い国」等、他に10編の短編が収められている。いずれも、作者の多面的な顔をのぞかせてくれ、興味深い。(2020・6)