ベルンハルト・シュリンク『オルガ』(松永美穂訳、新潮社、2020・4)

 『朗読者』で知られる作者の最新作である。ドイツ東部の貧しい家庭に生まれたオルガは、両親を病で失い、孤児となって祖母に育てられる。祖母は、スラブ系の血を引くオルガに終始冷淡な態度で接する。そのため、幸せとはいいがたい日々を送るオルガだが、まっすぐな性格と強い向上心を持った少女に育ち、20世紀のドイツがたどる激動の時代にたちむかっていく。その波乱に満ちた生涯を描いたのが本作である。

 ドイツは、1871年にビスマルクのもとで遅ればせながら統一国家をきずき、以来、ドイツ帝国として大国の道を歩む。アフリカ、太平洋諸島への植民地の拡張、ヨーロッパ有数の帝国主義国として迎える第一次世界大戦、敗戦と戦後の復興、ナチスの台頭、そして第二次世界大戦と敗北、米英ソによる占領と戦後の復活である。オルガは、苦労して師範学校に進み、郷里の小学校の教師となり、子どもたちを相手に暮らす。そして村の地主で資産家の家庭で育ったヘルベルトと親しくなり、やがて恋仲になる。しかし、身分、階級の違いから二人が望む結婚は許されない。

 そうしたこともあって、ヘルベルトは青年らしい夢を、広大な地、アフリカ大陸やアジア、南米などへの旅と冒険に託するようになっていく。やがて、ヘルベルトの野心は、北極圏、北東路の踏破という、著明な探検家アムゼンの後を追う大冒険にむかっていく。1913年秋、世界が第一次世界に向かって突進するなかで、ヘルベルトは北極探検隊の隊長として出発し、消息を絶つ。子どもたちとむきあいながらヘルベルトの無事と帰還を祈るオルガは、極地の郵便局留めでせっせとヘルベルトへ手紙を書く。オルガの隣人に幼い子どものアイクがいて、オルガはこの子をわが子のようにいつくしみ、そのことによって癒されもする。第一次世界大戦で村の男性たちが次々に出征、戦死の報が相次ぐ。喪服姿の村人が増えていく。そんななかで、オルガはヘルベルトを思い、やがてその死を受け入れるようになる。

 戦後、社会民主党を支持するオルガはナチスの台頭によって教職を追われる。手先が器用なオルガは、針仕事の内職を得て生活を立てる。可愛がっていたアイクは、ナチス党に加わり親衛隊に入り、オルガを時代に取り残された人間のようにあしらうようになる。しかし、世界征服というナチスの野望は挫折し、ソ連軍の進撃におびえつつ、オルガらは西へ西へと逃れ、ようやく戦火をまぬがれた小さな町にたどり着き、そこに落ち着くことができた。そこで、オルガの最後をみとることになるまだ幼かった僕と出会う。オルガは僕を連れて墓地を散歩するのが好きだった。そして、自分の過去やヘルベルトのことを語ってくれた。彼女によると、ヘルベルトが広大な地を求めて北極の氷河の中で死んだのも、強大な大国を夢想してドイツが二度にわたる世界大戦に挑むのも、すべてビスマルクのせいだという。「彼がドイツという国を、御しきれない大きな馬の背に載せてしまった。それ以来、ドイツ人もあらゆることに偉大さを求めるようになった」「大きすぎる目標――これこそが、ヘルベルトやアイクがそのために破滅した原因だとオルガが見なしてきていることであり、ビスマルクに責任がある」というのがオルガの固い信条である。そういえば、彼女が最後に住んでいた部屋の窓から大きな給水塔と、その近くに立つビスマルク像を眺めることができた。1960年代に学生運動が急進化し、テロなどが日常化する。1970年代になって、彼女が毎日眺めていた給水塔がテロで破壊され、このテロの巻き添えで重傷を負って彼女は波乱にとんだ生涯を閉じる。

 この作品のキイストーンとなるオルガのビスマルク観であるが、ドイツ人にとっては容易に受け入れられるのかもしれない。しかし、ビスマルクにもドイツ近現代史にも疎い筆者には、いささか唐突で違和感を禁じ得ないのだがはたしてどうか?(2020・7)