小川洋子『密やかな結晶』(講談社文庫)

  1994年に発表された作品だが、世界的に権威のあるブッカー賞の今年の最終選考候補6作のひとつにはいったことからマスコミでも話題になった。作者は、ナチスの迫害から逃れて隠れ家にひそんだ少女の手記『アンネの日記』に特別の思い入れをもち、これにちなんだ著作も書いている。本作にも、『アンネの日記』が少なからぬ影響を与えているように思う。

 舞台は秘密警察のきびしい監視下におかれたある島である。この島では、事物とその記憶が次々と消失していく。図書館がある日突然消えてなくなり、島の誇りであった野鳥の観測所もいつの間にか存在しなくなる。それだけではない。家庭にある時計が、家具が、置物が、身の周りの日用品が相次いで消えていく。そして、それらについての人間の記憶が消失していく。島の住民のなかには記憶が喪失しない人もいる。秘密警察はそれらの人をさがしだして、強制連行し、抹殺してしまう。

 私は作家であり、小説を書いている。私の母も秘密警察に連行されて消息を絶ってすでに久しい。懇意にしている私担当の編集者R氏がいて、この人は記憶が消えない人である。遅かれ早かれ秘密警察に囚われて、抹殺されるにちがいない。隠れ家にひそむ人々が連日のように発見され、秘密警察にしょっぴかれていく。私は、R氏を自分の家の地下室に匿うことにする。近くに住む子供のころから知り合いで仲の良いお爺さんがひそかに協力してくれる。人が住めるように地下室を改築し、R氏をそこにかくまい、毎日、食事や必要な日用品を運ぶ。こうして単調だが緊張した日々がつづく。ある日、すぐ近所の家に秘密警察がふみこみ、匿われていた家族全員を強制連行するという事件もおこる。

 そんな日々に、消失はどんどん広がっていく。やがて、小説が消失し、私は書くことができなくなる。それどころか、自分の片腕が消失し、片足が消失する。R氏の世話どころか、自分の身の回りの世話すら難しくなる。そんななかで島は地震津波に襲われ、大被害をうける。親切なおじいさんも、命を落とす。私は声も失い、やがて存在そのものを消失するにいたる。ただひとり残されたR氏が、地下から這い出して地上に出る。

 ざっとこんなストーリーなのだが、作品の世界は、隠れ家に閉じこもるという設定では、『アンネの日記』そのものであり、秘密警察による一切の事物、記憶の消失という点では、ジョージ・オーウェルの近未来小説『1984年』の世界である。また記憶の消失という意味では、作者の『博士の愛した数式』の延長線にある作品ともいえる。しかも、すべてがひそやかに、ひっそりと進行するところに、この作品の特徴がある。秘密警察の支配ということもあるが、本来なら、抵抗もあり、反逆もあり、たたかいもあってよいはずだが、そういうことはいっさいおこらない。私もふくめて島の人たちはすべてを、黙々と受け入れ、成り行きに従っていく。そこでは、物音ひとつしないのである。

 しかし、事物だけでなく、一切の記憶が消失するとは、これほどおぞましい非人間的なことはない。その極限を、一切口をはさまずにたんたんとつづるところに、この作家らしい物事への対処の仕方をみないわけにかない。作者は、そんな世界を描くことによって、何を警告しているのか、それは読む人の裁量にまかされる。(2020・8)