ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(吉澤康子訳、東京創元社、2020・4)

 たしか「朝日」が書評欄でとりあげていたので、読む気になった。妙な表題だが、現は“The Secret We Kept”である。作者は、アメリカのグリーンズバーグ出身の女性で、アメリカン大学で政治学を学び、テキサス大学で美術学の修士を取得、執筆活動を始める前には、選挙運動のコンサルタントをしていたという変わった経歴の持ち主である。この本は作者のデビュー作だが、原稿は23社によるオークションで200万ドルの値がついて2019年に出版され、すでに30ヵ国以上で翻訳されているという。

 ここでいう「あの本」というのは、ボリス・パステルナークの『ドクトル・ジバコ』のことである。東西冷戦時代、内容が反ソ的ということでソ連国内での出版を許されず、1957年にイタリアで翻訳が刊行されたのを皮切りに、多くの国で出版され、1958年にノーベル賞を受賞している。しかし、ソ連当局の圧力で作者は受賞辞退を余儀なくされた。海外でひそかに刊行されたロシア語版が様々なルートでソ連国内にもちこまれ、回覧され多くの読者を獲得する。「もう読んだ」「読んだよね」とひそかに交わされた会話が、そのことを象徴している。

 この作品は、『ドクトル・ジバコ』の作者パステルナークとその愛人オリガ・イ ヴィンスカヤをとおして、ソ連国内で彼らが受けた抑圧、強制収容所での虐待や作家同盟からの除名、作品を誹謗する新聞でのキャンペーン、尾行、盗聴、監視などの生々しい実態をリアルに描き出すとともに、それにとどまらない複眼が特徴となっている。というのは、もう一方で、『ドクトル・ジバコ』を反ソキャンペーン、ソ連の体制転覆の有力な材料にしようとするアメリカのCIAによる謀略をつぶさに描き出しているからである。それも、CIAの本部に勤務するタイピストたちの日常生活をつうじて、その一端をのぞき見るという変わった手法によってである。1950年代のアメリカが舞台だから、女性に対する差別、セクハラなどが横行するなかで、それに耐えながら快活にエネルギッシュに生きる若い女性たちが、女性作者らしい繊細な筆致で克明に描き出されている。

  新入りのタイピスト、イーナ・ドロツドヴァは、父がソ連で殺害され、アメリカに    逃れた母親に育てられたという経歴が注目され、タイピストにとどまらず諜報員としての訓練を受ける。そして、ベルギーで開かれた万国博覧会で会場を訪れるソビエトの人たちにロシア語版『ドクトル・ジバコ』をこっそりと手渡す役を担う。もちろん、ロシア語版『ドクトル・ジバコ』は、CIAが手をまわして原稿を手に入れ、製本したものである。

 パステルナークは、『ドクトル・ジバコ』のソ連国内での出版が絶望的だったため、訪れたイタリアの出版社の代理人に原稿を渡す。オリガはそのことがパステルナークと自分の生死にかかわる事態をまねくことをおそれ、なんとか原稿を取り戻そうとするが、どうにもならない。生き延びる道は、ノーベル賞を辞退するとともに、当局が迫る謝罪文にパステルナークが署名することしかない、と判断する。それらをめぐる恐怖とスリリングな展開にこそこの作品の最大のリアリティがあるといってよいだろう。

 『ドクトル・ジバコ』は、ジバコとラーラという女性が、ロシア革命の荒波にもまれながら愛をつらぬく物語である。作者の名がラーラというのは偶然の一致ではない。作者の母親が『ジバコ』の愛読者で、娘にヒロインの名をつけたのだという。(20209)