片山杜秀著『尊王攘夷―-水戸学の四百年』(新潮選書、2021・5)

 日本のナショナリズムを考えるには、どうしても幕末の尊王攘夷運動にまでさかのぼらなければない。それが明治国家以来の排外的な右翼思想、軍国主義の根源として果たした否定的役割にとどまらず、近代に向って歴史を前に推し進めた積極的役割もきちんととらえておかないと片手落ちで、そのことなしには日本国民の中に深く根を下ろしたナショナルなものを真にとらえることができないと考えてきた。そんなときに、本書の刊行を知り、読んでみることにした。著者は、1963年生まれで、慶応大学法学部教授で政治思想史の専門家である。

 尊王攘夷といえばまず水戸学である。徳川御三家のひとつで、副将軍と位置づけられた水戸家の第二代藩主、光圀公に始まり、欧米が日本周辺に進出する19世紀20年代にいわゆる後期水戸学へと発展し、尊王とともに攘夷、国防・軍備増強をとくようになり、吉田松陰ら幕末に活躍する志士らに大きな思想的指針をあたえる。藩主徳川斉昭のもと藤田幽谷、藤田東湖、相沢正志斉らである。本書は、光圀が唱えた尊王という思想がなぜ水戸藩で生まれたのか、それがどのようにして攘夷と結びつくようになるのか、幕末の歴史の展開の中で尊王攘夷の思想がどのように機能しあるいは亀裂と矛盾におちいり、自壊していくのかを、物語風に一回一回読み切りの断片をつらねていくことによって、多面的に論じていく。

 なかでも特徴的なのは、政治思想を思想として孤立的にあつかうのではなく、生きた歴史の生々しい現実の中で、それがどう機能し、変貌していくのかをとらえようとしていることである。例えば、1820年代に常陸の海にイギリスの大きな捕鯨船が毎年出没して漁をするようになり、地元の漁民たちを船に招き、酒食でもてなすなどして交流し、仲良くなり、物品の交換もおこなうようになり、それらの品が地元の商店の店頭に並ぶようにもなる。鎖国政策のもと放置するわけにいかず1823年、藩の役人が漁民ら召し捕えると、その数は300人にもおよんだ。さらに翌24年には、12人のイギリス人が、海岸に上陸し、藩と幕府の役人が捕捉して取り調べるという事件が起こる。つまり幕府の鎖国政策の根幹が現実に突き崩されていくのを目の当たりにする。相沢正志斉が「新論」を書いて尊王攘夷を唱え、国防強化を主張するのは、この事件の直後である。相沢は上陸したイギリス人の取り調べをおこなった当人である。

 水戸藩は御三家のうちでも江戸常駐を義務づけられるなど、将軍代理役として総力をあげて幕府を守る使命を与えられている。光圀は、その大義名分を儒学の天の思想と結ぶことによって尊皇をとなえ、天皇からの委託統治に幕府の最大の存在意義を認めた。「大日本史」の企画もそこから発想されている。19世紀にはいっての欧米列強による植民地化への間近に見る危機的状況へのやむにやまれぬ緊張した対応をつうじて、尊王が攘夷とむすびつくのである。それは民族的危機に対する当時としては最も進んだ対応であったといえる。

 しかし、他の御三家に比べて石高が少なく、常時財政破綻に直面していた水戸藩にとって、攘夷のための国防強化は並大抵ではなかった。自藩だけでも長い海岸線を持つが、副将軍としてのMI水戸藩の任務は日本全国の国防強化である。斉昭が試みたように、反射炉を自前で作り、強力な軍隊を組織するには、もはや武士だけでは無理である。士農工商や藩の枠を超えて人材を求め、それを生かさなければならない。実際水戸藩は、そうした方向に活路を求める。それは同時に、封建的枠組みをみずから壊していくことにつながる。長州の騎兵隊はその範例である。つまり幕府を守るための尊皇攘夷が、封建社会の解体をすすめる起爆剤になってしまうのである。ここに、水戸学の根本矛盾がる。

 そのことを端的にあらわすのが、天狗党の顛末であろう。1857年、日米通商条約を孝明天皇に反対され、攘夷を約束しながら実際には欧米列強の力を前に実行を渋る幕府にたいして、下から援護し攘夷を促すというのが天狗党の本来の趣旨である。ところが実際には藩を越え尊王倒幕をめざす志士らも結集し、旧守派から倒幕の意を疑われ、幕府の追討軍に追われて壊滅していくのである。その悲惨な顛末は、初めて知るものに衝撃を与えずにおかない。父である斉昭の教えを受けた徳川慶喜が、尊皇のゆえに将軍を投げ出さずにおかなかったのも、水戸学の悲哀と重なる。(2021・10)