宮城 修著『ドキュメント <アメリカ世>の沖縄』(岩波新書2022・3)

 「沖縄では四月二八日を『屈辱の日』と呼んでいる。一九五二年四月二八日、サンフランシスコ講和条約の発効によって日本は独立して主権を回復した。その一方で沖縄は、奄美、小笠原と共に日本から分離され、米国が統治する米国施政権下に置かれることにとになったからである」 このように書きだされる本書は、日米戦争で戦場となり島民の四人に一人が命を失ったうえ、一九七二年に日本に復帰するまで二七年間にわたって米軍の占領下のおかれた沖縄の人々の苦難とたたかいの歩みをあとづけている。筆者は、「琉球新報」の社会部長、論説委員長などを歴任し、沖縄国際大学で沖縄現代史を講じているジャーナリストである。

    一九七二年五月一五日、小学校三年生だった筆者は、学校で全生徒に送られた「祖国復帰おめでとう」と刻んだメダルを父に差し出す。父は「いきなり家の前に広がるサトウキビ畑にメダルを投げ捨てた。唖然とする私たち。父は理由を説明してくれず、ずっと黙り込んでいた」、と「あとがき」に記す。米軍基地の存在こそ、戦後沖縄の人々のあらゆる苦しみと不幸、人権抑圧の根源だった。佐藤内閣による施政権返還は、米軍基地撤去という県民の悲願には一切応えず、むしろ日米安保条約による日本側の負担を一方的に沖縄に押し付け、そのうえ地位協定によって無制限ともいえる行動の自由を米軍に認めるものであった。筆者の父の行為は、持って行き場のない積年の憤りの爆発だったのである。

 「琉球新報」は、2016~17年にかけて「戦後沖縄新聞」とのタイトルで大型連載を掲載した。米軍占領下の重大事件を公文書や証言などをもとに新聞形式で再現した企画であった。この連載でとりあげた事件が本書の縦軸をなし、屋良朝苗、瀬長亀次郎、西銘順治という3人の政治家が横軸に据えられている。それぞれ立場の違いはあるが、米占領下で沖縄県民の意を体して活躍した人物である。ここに、この書の大きな特徴がある。

 戦争で生き残った県民は、それぞれの住まいを離れて米軍の収用所に強制的に収容される。その間に、自分の田畑や宅地が米軍によって一方的に接収され、軍用地、基地にされてしまう。農民は、危険を冒して砲弾の飛び交う基地にもぐりこんで自分たちの田畑を耕すしかなすすべがなかった。50年代になって朝鮮戦争で土地の強制接収がさらに追い打ちをかける。例えば伊江島では軍用飛行場の建設のために、住民は有無を言わさずに追い出され、路頭に迷う。用地略奪に対する怒りは島ぐるみのたたかいとなり、56年6月28日、15万人が参加する歴史的な県民大会が開かれる。さらに、同年、那覇市では人民党の瀬長亀次郎氏が米軍のあらゆる妨害を撥ね退けて市長に当選、これを米軍が軍令の変更によってひきずりおろすといった事態に発展する。県民のたたかいは、やがて県民ぐるみの「祖国無条件復帰」運動へと発展していく。

 頻発する米兵の犯罪とともに、相次ぐ米軍機墜落事故によって県民の生命が脅かされる。1959年6月30日の宮森小学校への米軍機墜落では、生徒12人18名死亡、210人負傷という大惨事となる。ベトナム戦争で出撃基地となった沖縄では、B52爆撃機の墜落事故や爆音被害で県民の怒りが沸騰、県ぐるみのゼネストが計画され、実行寸前まで行く。こうして、県民のたたかいの広がりのまえに、米軍統治は次第に破綻し、主席公選が実現するなど、本土復帰への途がきりひらかれていく。その最大の原動力は、基地のない沖縄への県民の願い、悲願であった。県民の意を代表して、立法院も知事も米軍と日本政府に再三にわたって訴えつづけた。それだけに、この県民の意思を無視した日米政府間による施政権返還交渉とその経緯は、許しがたい。いま、辺野古への新基地建設が県民の総意を無視して強行されているのも、その延長でのことと言わざるを得ない。米占領下の沖縄の歴史を通して学べる絶好の書として薦めたい。(2022・4)