堀川恵子『暁の宇品――陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(講談社、2021・7)

  第48回大佛次郎賞受賞作である。筆者は広島出身で1969年生まれのドキュメンタリー作家。『教誨師』(講談社)、『戦禍に生きた演劇人たち』(同)などの作品がある。本書を知ったのは、たしか「朝日」の書評だったとおもうが、かつての日本軍とその戦争がいかにおろかで非科学的、非人間的な所業だったかを、日本軍の致命的弱点だった兵站、とくに島国日本にとって決定的な重要性をもつ海運輸送の軽視という実態を豊富な資料によってリアルに描き出している。船舶輸送というサイドからのおぞましい戦争の告発であり、こころからの敬服を表したい。

 どこの国でも陸軍の船舶輸送は陸海軍が協力して行うのが当たり前だが、日本では陸軍と海軍が反目していたこともあり、陸軍の海上輸送は海運には素人の陸軍自身の責任でおこなう制度になっていた。しかも、補給など兵站軽視、無視の陸軍では、日清、日露からすべての軍事行動が海をわたっておこなわれたにもかかわらず、船舶運輸は徹底的に軽視されていた。そういうなかで、軍の船舶運輸体制の近代化、強化の重要性を自覚してそのために力を尽くしたのが、陸軍船舶司令官となる田尻昌次(1905~1940)中将である。家庭の事情などから医学を専攻しようとして果たさず、遅れて士官学校に入り、

   軍のエリートコースである幼年学校出身でもなく、薩長藩閥にも属さなかった田尻が、広島市の宇品にできた船舶部へ配属されたのは、いわば軍主流からはずされたも同然であった。しかし、船舶輸送が陸軍の死活にかかわると自覚した田尻は、将兵を目的地に上陸させる艦艇の機械化など軍の船舶運輸体制の充実に全力を尽くす。そして、船舶運輸関係者から「船の神さま」といわれるようにもなる。

 おりしも、「満州事変」から上海事変、盧溝橋事件と日本の中国侵略が拡大し、さらに対英米戦、太平洋諸島、東南アジアへの進出が計画される。船舶運輸の実情が中国戦線への補給にさえ耐えない実情のもとで、戦線を東南アジアや南方、さらに対米英戦に広げるなど正気の沙汰でないというのが、田尻の冷静な判断であった。そこで田尻は意を決して軍上層だけでなく各省庁あてに軍備の不備を指摘する意見書をあげる。そして、当然のごとく、船舶輸送に決定的な役割をもとめられるそのときにあっけなく罷免される。なお、田尻のこうした経緯は、彼の生涯をふくめ本人が克明な自伝を残し未発表のまま遺族の手に保管されていたのを本書執筆者が発見し、はじめて明らかになった。 

 1941年12月8日の真珠攻撃、仏印マレー半島、フィリピンへの上陸とつづくその後の事態はどうなるか。緒戦の成功は一時の夢、ミッドウェー海戦で空母、戦艦など多くの主力艦を失った日本は、空軍基地を置く要所ガダルカナル死守のために、多くの輸送船で何万という将兵、武器弾薬を送り込もうとするが、上陸できずにことごとく撃滅され、船も人も失ったばかりか、島に残された将兵はつぎつぎに餓死するという悲惨な事態に追い込まれる。そして、残った輸送船が米潜水艦よって片端から撃沈され、使用に耐える船もなくなり広島の船舶補給部がカラになるなかで、ベニヤ板でかこった特攻艇に10代の若者を載せて出撃させる人間魚雷の出現にいたった。最後は、広島、長崎への原爆投下。宇品に残った軍人たちは、原爆犠牲者の救援に最後の死力をつくす。田尻の後を継いで船舶運輸を担当した司令官らの苦闘を追跡する筆者の描写は、一段と苦渋に満ちたものになる。

 作者がそもそも本書を書くきっかけは、広島がなぜ原爆投下の対象にされたのか、という疑問を解きたいということであった。そこで、広島市内の宇品におかれた陸軍の兵站をになう船舶運輸基地に目をむけたという。原爆投下時にはすでに宇品の基地はほとんど機能していなかったのが。(2022・6)