ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』(友廣純訳、早川書房、2020・3)

    2019年に全米で70万部を突破し、日本では2021年度の本屋大賞翻訳部門第1位となっている。新聞の書評などで知って読む意欲をそそられたが、購入するのもと思い近くの市立図書館で借り入れを申し込んだら、なんと百数十番ということで、貸出までにちょうど一年かかった。図書館でのベストセラー新刊書の宿命である。ようやく手にできた本書は、私の期待に十分応えてくれた。ひさびさに深い感動をおぼえる力作に出あえ、充実感を味わっている。作者は、アメリカのジョージア州出身の動物学者で、『カラハリ――アフリカ西最後の野生に暮らす』(1984年)が世界的ベストセラーになるなどのノンフィクションでは実績のある人である。しかし、小説を書いたのは今回が初めて、70歳の快挙である。

 ノースカロライナの太西洋沿岸に湿地帯が広がる。サギやカモメなど水鳥や水生の動植物、昆虫などが自然のままに生息する。よく霧がかかって神秘な景観が広がる。初夏には蛍が一面に舞う。しかし、そこはまともな人間の住む場所ではなく、みすぼらしい小屋を建てて居ついているのは極貧しいか、身を隠すアウトローの人々である。主人公のカイアこと、キャサリン・ダニエル・クラークもそうした住民の一人で、幼くしてすべての家族を失い、ただ一人そこに住み、周囲の住民からは“湿地の少女”と呼ばれてさげすまれ差別されている。もともと父母と年の離れた二人の兄と姉の五人兄弟で暮らしていたのだが、酒乱の父の暴力に耐えかねた母はカイアが6歳の時に家を出、つづいて一番上の兄、二人の姉、そしてすぐ上の兄が続けざまに家を捨てる。残されたカイアは父の世話をはじめ家事の一切を押し付けられ、学校にも行けない。そして、父もいつの間にか姿を消す。周囲から隔絶された湿地に一人残されたカイアが、どうやって生きていくか? 母の記憶をたよりに幼い手で食事の支度をし、釣銭の勘定もできないのに買い物をこなし、ボートを操って湿地の中の水路をたどり、苦労して掘った貝を売ってわずかの収入を得て、食料を買う。この“湿地の少女”が一人で生き、成長していくその哀しくもたくましい足取りをたどるのが、この作品の主題である。

 同時に、この小説には、チェイス・アンドルードという、クオーターバックのスター選手で、村で評判の魅力的な若者が湿地の中にある櫓から転落死するという事件をめぐって、事故か他殺かという難しい捜査が並行して展開される。カイアのストーリーは彼女が一人ぽっちになる1952年からはじまるのだが、事件は1969年、カイアがすでに20歳代半ばになったところで起こる。カイアが一時、チェイスと交際していたことから疑惑がむけられ、カイアは事件に巻き込まれていく。このミステリーが並行して展開され、それはそれで手に汗を握る謎解きの面白さがある。だがなんといっても、孤独な一人の少女が大自然を生きぬいていくドラマこそこの作品の読みどころである。少女は、毎日目にするサギやカモ、蝶やトンボ、貝や魚などから、湿地の水と草木がおりなす自然の多彩な営みに魅せられ、それらを心から愛し、そこになによりの生きがいを感じる。

    カイアの境遇に同情し、なにかと手を伸べ、カイアが採った貝を買い上げてくれる親切な人もごく少数だが存在した。船着き場で釣り具なども商うジャンピンという黒人とその妻メイベルである。この夫妻がいなければ、カイアは到底生き続けることは出来なかったであろう。カイアは二人を実の父母のように思い慕う。もう一人、兄のジョディの友達で、湿地を愛し釣りに時々訪れるテイトという少年が、カイアの話し相手となる。のちに大学へ進学して生物学を学ぶことになるテイトから、カイアははじめて文字を習う。そして、本を読み詩を朗読するようになる。母親譲りで絵を描く才能に恵まれたカイアは、湿地の動植物を採集し、標本を作りその絵を描き、覚えた文字で説明文をつけ、集積するようになる。やがてテイトとの間に恋が芽生えていくのだが、大学に進学するテイトはカイアを置いてこの地を去る。そしてまたたった一人になったカイアは、この湿地で自然と交わりながら孤独な青春を生きぬいていく。この少女の前にどのような世界が待ち受け、未来がひらけていくであろうか? (2022・7)